プロフィール

冨田なおき略歴

1976 年1月28日山形県山形市生まれ。山形東高校、法政大学法学部卒業。
大学時代に首都圏13大学の学生が留学生と交流する「国際交流学生連絡協議会(SNIE)」副会長。阪神・淡路大震災被災者の個人補償を求める運動に参加(2007年、改正被災者支援法で住宅本体への支援が実現)。
1998 年より日本共産党千代田地区委員会勤務。「しんぶん赤旗」千代田出張所長等を経て、2007年より東京1区で活動開始。2009年総選挙に東京1区から立候補。
2012年総選挙に東京1区から立候補。18763票(6.7%)を獲得。2013年2月、千代田区長選に『明るい千代田区政をつくる会』から立候補(無所属、日本共産党推薦)。同年6月、都議会議員選挙(千代田選挙区)に立候補。2213票、12.89%を獲得。
2014年総選挙に東京1区から立候補。32830票(13.1%)を獲得。

現在、日本共産党千代田地区副委員長。日本国民救援会千代田総支部常任委員。
趣味/トロンボーン・卓球・カメラ・鉄道旅行・散歩。
家族/妻、1男、義母。

父は転勤族、家族で転々

1976年1月に山形市で生まれた私は、4月には父の転勤で家族と札幌に転居。4歳で山形市にもどり、小学2年のとき南陽市に転居、ここで小学校卒業。中学でまた山形市にもどり、高校を卒業するまで在住しました。

家族は、両親に妹の4人。

幼稚園ではいじめにあい、数ヶ月登園拒否。それ以来、集団生活になじめなくなり、その状態は小学校低学年まで続きました。

小学校3年のとき担任の先生に、「教室は間違うところ、どんどん自分の意見を言いなさい」といわれ、そのことが契機になり、自分から積極的に話しかけることができるようになりました。4年生のころには、友だちから「冨田はうるさい」といわれるほどにかわっていました。

歴史もの、科学もの、推理小説、本が大好きな小学生

小さいときから母がよく読みきかせをしてくれた影響か本が好きで、小学2年のころから学校の図書室でどんどん借りてきては読みふけっていました。

それも、まんが「日本の歴史」やまんが「伝記シリーズ」、学研まんがの入門シリーズなど、歴史や科学ものばかり。

そんなものばかり読んでいては人格発達に影響があると心配した母は、那須正幹の「ズッコケ3人組シリーズ」などフィクションものの本を買ってきてくれました。それからは、シャーロック・ホームズや江戸川乱歩などの推理小説を多く読むようになりました。

また、切手収集が趣味で、郵便局が大好きになり年中出入りしたり、テレビで相撲を見たり、友達と取ったりしました。

筋トレなどで身体を鍛え、心身とも成長した中学校時代

小学校の時は身体が弱かったのですが、中学校では卓球部に入りました。家に帰ってからも、筋トレやジョギングで身体を鍛え、体力も人並みになりました。毎週おこなわれたマラソン大会で上位に入るようになり、クラス対抗の駅伝では選手にも選ばれました。

父の転勤で、中学1年生の10月に、南陽市から山形市へ転校。この機会に友だちをたくさんつくろうと努力しました。文化祭の合唱コンクールで、2年生の時はクラスがまとまらず散々でしたが、3年生の時はみんなで力をあわせて金賞に。うれしくて、リーダーの子とがっちり握手したことを覚えています。

中学校時代は、なにごとにも積極的になり、心身ともに成長した時期でした。

卓球は中学以来やっています。

校則改正に取り組み、丸刈り廃止を実現

中学1年の10月に転校した先は、男子は全員丸刈り。2年の時、新任の若い先生から「なぜ制服や坊主頭か考えたことあるか」と言われ、どうするかが生徒会の懸案事項になっていました。

「討論会に参加するには事前に意見書を提出しろ」と言われ、内申書を気にしながらも意見書を出したり、クラスでの参加の呼びかけをしました。この頃は担任の先生からは良く思われていませんでした。

その後、校則改正を掲げる会長候補を推してその責任者になり、会長選挙は負けましたが、私は生徒会事務局長に推されました。

何カ月もかけてクラス討論に取り組み、中3の11月に丸刈り廃止など、校則の改正を実現しました。

一方では、クラスの番長に頼まれて、女生徒への手紙の代筆をしたこともありました。

いも煮会--授業は1時間で打ち切り、全校の行事に

山形の風物詩といえば、なんといってもいも煮会です。親睦を深める場として、友人・家族・職場・学校・地域など、社会生活のあらゆる場でおこなわれます。

山形盆地を囲む山々が色づくころ、市内を流れる馬見ケ崎川の河原や、広場が会場になります。

中学校の行事にも組み込まれ、前日は部活動は中止になり、さと芋や牛肉、こんにゃく、長ネギなどの食材、炭などの買い物から準備が始まり、商店が無料で大なべを貸してくれます。

当日、授業は1時間で打ち切られ、クラス別やサークル別にいも煮会が行われます。私の入っていた吹奏楽部でもやりました。

今では観光の目玉としてマスコミでも取り上げられますが、地域の生活に深く根ざした伝統ある行事です。

冬は庭でミニスキーも。さくらんぼなど自然の恵み豊かな土地柄

小学校時代を過ごした南陽市は、米沢盆地の北側にあり、一面はぶどう畑です。北西隣の白鷹町は、1972年に東京1区でトップ当選した紺野与次郎さんの出身地です。

冬は雪が多く、除雪車が自宅の駐車場まで入ってきて、その雪の山でミニスキーをしたり、家族で蔵王にスキーに出かけたりしました。家によっては子どもも屋根の雪下ろしの手伝いをしていました。

高校では自転車通学でしたが、道路が凍結していつも危ない思いをしていました。

山形県は、日本でも有数の果物王国で、さくらんぼ、ラ・フランスは生産高1位。ぶどう、りんご、桃なども有名です。米や牛肉など農・畜産物も豊富です。

このような気候風土を反映してか、山形県人の特質として、親切・働き者・粘り強いといわれていますが、果たしてどうでしょうか。

高校生活で唯一・最高の楽しみ、トロンボーン

入学した高校は山形県内でも有数の進学校で、理科や生物もほとんど実験などせず、ペーパーテストに追われ、違和感をもちました。一方、社会の出来事に関心が芽ばえ始め、将来は社会科学方面に進もうと考えるようになりました。

学校中が勉強に追われる中で、唯一・最高の楽しみが吹奏楽部でした。小学校のとき見たトロンボーンにあこがれていました。

吹奏楽部が東北大会に出られる枠は、県で2校しかなく、必死に練習しましたが、残念ながら3年のとき3位に終わりました。卒業してからも、帰省をかねて吹奏楽部の手伝いや応援に。2年後輩は見事県大会を突破し、私たちの夢を果たしてくれました。

県大会突破をめざし、練習に熱中

「戦争は絶対だめ!」--祖父母の話が生き方に大きく影響

祖父母からは、物心ついた頃から戦争の話を聞かされ、その後の自分の生き方に大きな影響をうけました。

父方の祖父は、パン職人でしたが、2回徴兵されました。一度目は海軍に入り、天皇のお召し艦「比叡」に乗った時、天皇から直接声をかけられたことを自慢にしていました。2度目は世界大戦の最中で、「大鳳」が撃沈された時は泳いで助かるなど、3度も死に損なった兵士としての経歴を誇りにしていました。

毎年、軍の記念日にはZ旗を掲げたり、戦死した地元の有名軍人の墓参りに連れて行かれたりしました。その祖父が、晩年は「戦争は二度としてはならない」と言うようになりました。

母方の祖父は、その兄が戦死したこともあってか、「戦争は絶対だめ」と確固とした信念を持っていたことを、子供心に感じていました。

祖母も進駐軍の無法ぶりにいやな思いをもち、「戦争はいやだ」と口癖のように話していました。

法政大学に進学し、山形から東京へ。世界が大きく広がった

山に囲まれた所で一生を終えるのは嫌だという気持ちが強くなり、大学進学を機に、山形を離れることになりました。

以前から社会科学分野を学びたいと思っていて、法政大学の法学部政治学科に入学しました。大学に入って急に世界が広がった気がしました。

卓球とジャズバンドのサークルに入り、サックスにも挑戦しましたが、この2つは1カ月で挫折しました。

留学生との交流を目的とした国際学生交流会にも入りました。これまで見たことも聞いたこともないサークルで、大学の主催で年1回行なわれるスピーチ大会に参加する留学生の援助者をしました。

このサークルは、首都圏の13大学15団体でつくる「国際交流大学連絡協議会(SNIE)」に加盟していて、後にこの協議会の副会長を務めることになり、国際学生交流会やSNIEの活動が学生生活の中心となっていきました。

国際学生交流会のメンバーと。左から3番目が冨田、その右は中国の留学生

アジアの学生たちとの交流を通じて、「二度と戦争はしない」が血肉に

法政大学の国際学生交流会では、先輩の一人が「まじめな学習会をやろう」と「アジアンゼミ」を始め、ODA、日本の戦争責任、731部隊などをテーマに学習しました。

留学生やアジアの学生たちとの交流を通じて考えさせられたことは、より深くつきあうためには、互いの国の間で過去に何があったかを知る必要があるということです。サークルの合宿で韓国・ソウルに行った時のこと、現地の女子学生から「どうして日本の政治家は、侵略戦争を免罪する発言をくり返すのか?」と問いかけられ、ハッとさせられました。

これらの活動を通して、「日本は二度と戦争をしてはならない」いう思いが、自分の血肉となっていきました。

また、国際交流大学連絡協議会(SNIE)の活動では、大人数で企画に取り組むことも多く、初対面の人や大勢の人と臆せずに接することができるようになりました。

この頃は、北新宿の日本語教育センター(旧国際学友会)にもよく通いました。

日本の植民地支配の拠点だった旧朝鮮総督府(ソウル)の前で。左から2人目が冨田なおき

日本共産党の専従活動家として

「日本共産党の専従活動家を考えてみないか」といわれたのは、大学4年生のときでした。入党して半年、日本共産党が政治のなかで果たしている役割に確信を深めていました。

民青同盟の合宿で仲間たちと。左から3人目が冨田なおき

神戸市で被災者支援の署名にとりくむ姿が「しんぶん赤旗」(97年8月25日付)に紹介されました

職業として共産党の活動家を選ぶということに、行きつ戻りつ考え、「この党を大きくすることが社会を変え、政治を変える力になる」と、この道を決意しました。

そのころ、就職のことを心配し両親が上京してきました。自分の考えを話すと、両親は驚き猛反対でした。共産党に対する偏見が根強いなか、両親が心配するのも無理もないことでした。息子のことを思っての意見だけに、親の反対は辛いことでした。しかし、「誰かがやらなければならない仕事」「父も母も、必ず分かってくれる時が来る」と自分に言い聞かせました。

1998年の春、千代田地区委員会に勤務し、新しい生活を開始しました。一番長く勤めたのは、「赤旗出張所」です。

毎朝、3時過ぎに起き、届いたばかりの日刊紙を仕分けし、配達員を起こし、自らもバイクに乗って配達にでる忙しさ。「自転車やバイクがパンクしていないか」「雨の日に使うビニール袋があるか」「集金をどうするか」などにも気を配ります。

千代田区には、個人の読者だけでなく、各官庁、大企業本社が多くの「赤旗」を購読していますが、様々な読者に確実に届くよう気をつかいました。

いま、日本共産党が新たな注目を集め、その活動が政治を動かしています。「赤旗」は、たくさんの人の手で全国に届けられ、様々な運動を支え励ますとともに、家族みんなで楽しめ、役にたつ新聞として定評を得ています。大災害のときに被災者支援の輪を広げるのにも大きな力を発揮しているのが「赤旗」です。

いま、「派遣切り」という政治災害が大問題となっています。「赤旗」がより多くの人に読まれ、真実がもっと多くの人々に直接伝わること――それが、問題解決の大きな力になると、日々実感しています。

特別編 子育て真っ最中。どんなお父さん?――妻・僚子さんに聞きました

子育て真っ最中の冨田なおきさん。家庭ではどんなお父さんでしょうか。妻の僚子さんに聞いてみました。

――毎日帰りが遅いと思いますが、お子さんとはどのように過ごしていますか?

早く帰れる日は、子どもといっしょにお風呂に入ります。それから、電車の雑誌を子どもといっしょに見て、夢中になっています。電車のことを子どもに教えて、「父と子の世界」をつくっているようです。

――朝早く宣伝に出かける日もありますが、食事は?

おにぎりを持って出たり、外で食べたりです。私はまだ寝ています。早朝の宣伝がない時や休みの日は、朝食事をつくってくれます。卵焼きがとっても上手です。おばあちゃん(僚子さんの母)に教わって、家事も上達しました。

――普段はお子さんとどんなふうに過ごしていますか?

休みの日はお話をしたり、歌を教えたり。「サザエさん」の歌を歌っています。子どもをあまり怒りません。怒るのは私です。

――冨田さんについて何か新しい発見はありますか?

先日なんか、久々の休みに、九州の方へ行くブルートレインが廃止になるとかで、わざわざ乗りに行きました。目的地に着くために乗るのではなく、「乗るため」に乗りに出かけて行く気持ちが、私には理解できません。民営化でJRの路線廃止を嘆いています。「『路線を廃止させません』を公約にしたら」と言っているのですけれど…。

――夫婦げんかなどはないんですか?

私は、不満をその都度言っていますが、その都度きちんと受けとめて改善してくれています。わが夫ながら、「えらいなあ」と思っています。

――ありがとうございました。

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