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2010年4月2日 通算903号

さがらとしこ事務所 
東京都北区赤羽北 3-23-17
TEL&FAX 03(3905)0970

日本共産党区議団
北区王子本町1-15-22 区役所内
TEL 03(3908)7144

早いものですね。もう4月。
こぶし、連翹、花にら、サクラ、ヤナギ、ムラサキハナダイコン……
豊かな色彩、自然の恵みです。

「国の財源で高すぎる国保料の引き下げを求める請願」
*さがら事務所に署名を届けていただきまして、ありがとうございます。
4月17日(土)3時~4時 赤羽台団地緑道トンネル上で署名活動します。


予定  
4月3日(土)
「いのち守れ」大集会 12:00~ 明治公園
6日(火)
区立小学校の入学式 
7日(水)
区立中学校の入学式
13:30~新桐中落成式
10日(土)
「日本共産党を大きくしたい」女性宣伝カーが走ります。
13:00~外語大跡地に「西ヶ原みんなの公園」オープン
14日(水)
18:30~日比谷野外音楽堂「普天間基地無条件撤去を」
21日(水)
18:30~日本共産党 演説会 赤羽会館
小池あきら参議院議員がお話します。
24日(土)
13:30~「赤羽スポーツの森公園」
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「建替え後の家賃は高い。払える家賃に」
工事用仮囲いで遠のいた客足「商売がつづけられるよう支援を」
<赤羽台団地・第3期計画の説明会>
*建替えがはじまったのは、平成12年(2000年)で、10年となります。
現在、第1期2ブロックと第2期の建替え中で、完成まであと少し。11月には入居が予定されています。

*都市再生機構(旧公団)は、次の第3期計画地を明らかにし、3月には居住者への説明会を赤羽会館でおこないました。
対象となるのは11棟の334戸で、建替え後の戻り入居は平静27年8月頃(2015年)としています。

*また、この3期計画には、店舗や診療所などの賃貸施設も対象としました。これらの施設については、都市機構が自ら建設するのではなく、民間事業者を公募して、建設と管理をさせることになると説明しました。この建替え後施設に入店する場合は、事業者との契約を新たに結ぶことになるとしていますが、どんな事業者となるかは未定。建替え後の入店は平成25年の予定。

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「国保追求よかった」
息子犠牲の両親と小池さん握手
「国保の実態を国会で取り上げてもらい、よかったです」と小池さんと固く握手を交わしました。

夫婦の1人息子=当時(29)=は、5年前、国民健康保険量が払えず督促が続き、窓口で10割負担となる資格証が届いた翌月、自殺しました。小池さんは、部屋に残された督促状の束を手に、4日の予算委員会で首相に迫りました。その質問が長妻昭厚生労働相の前向きな答弁を引き出したのです。

小池さんが「命を守るべき医療保険の負担が高すぎて命を落とす。こんな国でいいのでしょうか」と訴えるのを母親(60)は涙ぐみながら聞きました。
「国会質問もテレビで見ました。わかりやすく話していただける。息子の死がムダにならなくてよかった」

「しんぶん赤旗」2110.3.28付日刊より
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人口15倍 経済効果16倍
沖縄・那覇市 那覇新都心
 「那覇副都心」-沖縄県那覇市の北部に位置し、北は浦添市に隣接、西に泊港を望む一帯です。首里王朝時代は直轄地。県民を巻き込む凄惨な地上戦となった沖縄戦で、米軍が「シュガーローフの戦闘」と呼ぶ最大の激戦地もあります。
 ここ那覇市天久(あめく)は、かっては「牧港住宅地区」と呼ばれていました。地元住民を金網で仕切り、浦添市の海兵隊・牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の軍人・家族用に芝生が広がる住宅とプール、ゴルフ場、スケート場などが並んでいました。

 ここで基地のない“街づくり#が始まって20年近い間に、人口は15倍の約1万5000人に。広さ214㌶の同地区は半分が住宅(55.1%、課税面積)。県立博物館新館・美術館などの文化・行政施設や「原宿みたい」といわせた巨大店舗・業務ビルが立ち並び、平日でも車や人の波が絶えません。
 県基地対策課の委託調査によると、軍用地代や各種交付金など返還前「基地経済」が生み出した「経済波及効果」は、総額77.8億円(年額)と推計されています。

 これにたいして、変換後の“街づくり”による「経済波及効果」は、1238.2億円(2001、02年度数値による)、約16倍です。2013年には、「(02年時の)3倍程度にまで拡」と見込まれています。
 ここまでくるのに住民の苦労は並大抵ではありませんでした。戦後、捕虜収容所からもどされた住民を待っていたのは、米軍による無法な土地強奪でした。1953年に米軍・米国民政府が公布した「土地収用令」の適用第1号地となり、立ち退きを拒否する住民を、米軍は「銃剣とブルトーザー」で追い立て、収穫目前の畑や先祖伝来の墓を押しつぶしました。

 「施政権」返還(1972年)後も、全面返還には12年かかりました。
「返還は移設条件付きでした。“思いやり予算”で高級マンションなどを建てる。米軍は移設先ができて、ようやく返す。長い時間がかかりました。」米軍の土地取り上げに命がけで抵抗した沖縄人民党(73年、日本共産党に合流)で、幹部として基地問題に取り組んだ高江洲義一さん(72)が指摘します。

 ただでさえ、戦争で土地の権利関係は複雑でした。基盤整備もされず建築確認はおりない。土地収入がなくても固定資産税はかかる…。「住民も行政も苦労しましたが、今のにぎわいを見て、あのころの努力は正しかったとうれしく思います」。当時、日本共産党那覇市議団長だった当真嗣州さん(73)の感慨です。「自民党と米軍は、革新市政が区画整理・街づくりができないよう、虫食いのコマ切れ状態で返還してきました。
党市議団は、行政を励まし、地主ら住民の合意形成を大切にしながら、論戦を通して“街づくり”の豊かな可能性を明らかにしたものです」(青野圭)

2010年3月29日付「しんぶん赤旗」日刊より
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