公的支援へ署名、「住民投票」運動
05年1月16日「しんぶん赤旗」より
大震災から10年を生きぬき、楽しみの食事会で近況を語り合う被災者たち=14日、神戸市長田区の番町診療所
この十年間は、住民本位の復興をめざす世論と運動が政治を動かし、被災者支援策を一歩一歩前進させてきた十年でもありました。
被災地の諸団体が集まる阪神・淡路大震災救援復興兵庫県民会議と日本共産党はその先頭に立ち、震災直後から、住宅など失われた生活基盤回復の要となる個人補償の実現をはじめ、被災者の切実な願い実現に奮闘してきました。
県民会議は、「住宅・店舗再建に五百万円、生活支援に三百五十万円の公的支援」を求め百万筆を超えた署名運動、九六年の二度にわたる一万人集会、約八十七万人が投票した九七年の公的支援実現「住民投票」運動(八十五万人以上が公的支援賛成)、たび重なる政府・国会要請、返済に困る災害援護資金問題の相談会など、大きな運動をくり広げてきました。
多くの成果実現
“家は捨てる。救援に専念しよう”
ヒゲ先生 筒井県議がんばる
苦難あるところ、共産党あり
“人間復興”――。自ら被災しながら、被災者の支援活動に身を投じた日本共産党兵庫県議の筒井基二さん(74)が、追求し続けてきたテーマです。筒井さんは、「国民の苦難あるところ日本共産党あり」の精神を体現し、被災地の党の象徴ともいえる人です。
震災で自宅が全壊。ガレキに埋もれた妻と義母を引っ張りだしたあと、すぐ外へ飛びだし、生き埋めになった三人を救出しました。義母と妻を避難させ、壊れた自宅を振り返ったとき、「家は捨てる。日本共産党の議員として、救援活動に専念しよう」と誓いました。
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さら地のままの青木大市場跡で住民と話し合う筒井基二県議(右から2人目)=14日、神戸市 |
議場圧する追及
筒井さんは、東灘区内の避難所を泊まり歩いて、被災者の要求をじかにつかみ、すぐ対応する活動を続けました。公園で避難生活をしていた依田久恵さん(55)は、「筒井さんが炊き出しに来てくれたときのことは忘れられません。あのおにぎりのおいしかったこと。ご自分も大変なのに、なかなかできませんよ」と振り返ります。
「私はすべての被災者の最後に仮設住宅に入居させてもらう。知事、私に仮設住宅を与えていただけるのか」。気迫のこもった筒井さんの追及に、本会議場は静まりかえりました。一月二十九日に開かれた臨時県議会での筒井さんの質問はマスコミからも注目を集め、その後知事は、希望者全員に仮設住宅を提供すると発表しました。
二月には、小雪の舞う小学校(避難所)でテレビに生出演。配られている冷たいおにぎり弁当をしめし、「これで栄養が保てると思うか」「国が個人補償をせよ」と小里貞利地震担当大臣(当時)に迫りました。テレビを見た人から「共産党が個人の財産を守ってくれるとは知らなかった。見直した」と電話があるなど反響をよび、翌月、避難所の給食費は一日八百五十円から千二百円へ引き上げられました。
髪もひげも伸ばし放題で走り回る筒井さんを、住民は「ひげの先生」と呼ぶようになりました。
個人補償を求め
九五年十月、仮設住宅で孤独死を目の当たりにしました。栄養失調で男性が亡くなっていたのです。「食べかけのカップラーメンとほとんどカラの貯金通帳を見たとき、なんという冷たい政治かと、悔しさと怒りで言葉が出なかった」と声をつまらせます。
「被災者を救うには、どうしても個人補償が必要」と痛感。党県議団長として、「震災復興」の名で大型開発を推進する県と対峙(たいじ)してきました。
期待と信頼高め
「一番大変なときに助けてくれたんは共産党だけや」「頼むで」―献身的な活動が住民の期待と信頼を高め、震災の年の県議選で、初のトップ当選。九九年の選挙もダントツの一位でした。
筒井さんは、「復興施策は『ゼネコン型』一辺倒で、被災者は立ち直れないまま…。十年で支援策を打ち切るのは許せない」と語気を強めます。
十年目の一月十七日を、かつてテント村があった東灘区の公園で迎えます。「十年で街はきれいになりましたが、被災者の苦しみはまだまだ続いています。震災で生かされた命が本当に報われる“人間の復興”を実現する日まで、被災者とともに歩み続けたい」
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