うつ病を克服、高島忠夫さん/ 少しずつ前向きに /家族の支え、運動が力に
うつ病になったことを公表し、数年間の闘病生活を経て芸能界に復帰した高島忠夫さん。闘病を支えた思いなどを聞きました。体がふとんにへばりついて 八年前のある日、NHKの仕事で大阪のホテルに泊まった朝のことです。目が覚めても、体がふとんにへばりついて、立ち上がる気持ちが起きない。全身が不快で、とにかくだるい。食欲もない。それが、うつ病の始まりでした。
その日は、ちょっとした仕事だったのに、ものすごく疲れました。それで帰りの新幹線から会社に電話して、「明日からの仕事は全部キャンセルしてほしい」と頼みました。「使える体じゃないから」と。
家では、ほとんど寝たままで、天井を見て過ごしました。好きなジャズを聴く気にも、何をする気にもなれませんでした。一年ぐらいたったころ、だいぶ元気が出てきたので、仕事でアメリカ旅行をしましたが、まだ無理だったんですね。再発してしまいました。
家にこもってベッドに横たわり、お医者さんに行くだけの生活が続きました。妻(寿美花代さん)も二人の息子(高嶋政宏さん、高嶋政伸さん)も、それぞれ仕事があって忙しいのに、なにくれとなく気遣い、協力し、見守ってくれました。とくに先がはっきり見えないなかで、ずっと面倒をみてくれた家内は大変だったと思います。自分がうつになるんじゃないかと思ったと言っています。心から感謝、感謝です。妻のすすめで始めた散歩 ぼくは、もともとは明るい性格で、周りの人たちが気持ちよくすごせ、元気が出るように気を配ってきました。座の中心にいて仕切っていました。
だから、ある人から「あれだけお笑いの渦の真ん中にいた高島くんが、うつ病になるとは、愉快、愉快」と、ばかにしているのか、心配しているのかわからない手紙がきたほどです。
そんなぼくが、今は前向きな気持ちになり、ぼちぼちと仕事ができるようになれました。一つは体を動かすことが良かったのだと思います。
最初は、家でうつろな顔をしているぼくに、家内が散歩をすすめてくれたのです。心配してくれる気持ちに応えなければと、十五分ほど近所を歩いていました。
そのうち、先生のすすめで、リハビリのために病院のフィットネスに通いだしました。歩幅を大きく四十分間歩きます。びっしょり汗をかきます。最初は、とても苦痛でした。ところが終わってみれば、すごく気分が良い。周りからも、「ずいぶん顔色が良くなってきたね」と言われましてね。あー、いいんだなと、自信もついた。今も、ほとんど毎日通っています。感動する心も戻ってきて 前向きな気持ちが出てきたら、感動する心も戻ってきました。闘病中は、テレビを見ても、ボーッとしているだけでした。最近は、よく眼鏡をはずして涙をふいています。主にドキュメンタリーを見るんですが、その人らしく一生懸命生きている姿に、感動もひとしお。ぼくも、この状態をなんとか打破したいと思うようになりました。
あるときテレビ番組でぼくのことが話題になって「復帰は無理だろう」と言った人がいました。それを見て「なにくそ、引退してたまるか」とファイトがわきました。「高島忠夫」を生きるために 「高島忠夫という名前を大事にするために頑張って立ち直ってください」という手紙をもらったことも、励みになりました。うつ病の人に「頑張れ」は禁句と聞きますが、ぼくの場合は平気。人によるのかもしれませんね。このごろはできるだけ人と会って話をしたり聞いたりしています。
最後まで自分らしく生きたい。最近亡くなった前プロ野球監督の仰木彬さんのように、仕事をして倒れるくらいでいきたいと思います。ただ、病気になる前のハイテンションには戻りたくはないですが。周りの人たちをワーッと明るくするようなことを、またやれたらいいなあと思っています。
聞き手 中村 万里 写 真 山形 将史たかしま・ただお 1930年神戸市生まれ。関西学院大学在学中の51年、新東宝第1期ニューフェースに合格。映画やミュージカル、テレビ、ラジオ、舞台などで多彩に活躍。著書に『 「うつ」への復讐(ふくしゅう) 絶望から六年目の復活』(光文社) |