3・1ビキニ
第五福竜丸を忘れない
「西から太陽が昇ったぞ!」「ばか言うな。西から太陽が昇るか」。一瞬にして放たれた強烈な光が漁船乗組員の目に焼きつきました。赤道近くの太平洋ビキニ環礁で米軍がおこなった水爆実験初日の閃光(せんこう)でした。57年前の3月1日は日本人が広島、長崎に続いて核兵器の犠牲になった日です。(浜島のぞみ)
1954年3月1日午前3時42分(日本時間)、米軍は1回目の水爆実験を行いました。危険性を知らされていなかったマーシャル諸島住民や周辺海域の漁船が被ばく。爆心地から推定160キロの場所でマグロ漁をしていた第五福竜丸も被害にあいました。
現在、この船は東京都江東区夢の島公園内にある都立第五福竜丸展示館に保存されています。同館学芸員の市田真理さんは、乗組員だった大石又七さん(77)の本の出版を手伝っています。
2月中旬、全国から若者たちが同館を訪れました。日本平和委員会主催で開催された「ピース・エッグ」の参加者たちです。市田さんは、大石さんの体験や被ばくの実相を青年たちに語りました。
はやぶさ丸の船名で、廃船として夢の島につながれている第5福竜丸。白井千尋赤旗記者(故人)撮影
=1968年3月1日、東京都江東区 |
当時、20歳だった大石さん。はえなわ漁の縄を入れ終わったところ、強い光を見ました。数時間後に雨が降ります。爆発で噴き上げられた、放射能を含む白いサンゴのかけらが交じった「死の灰」でした。死の灰が付着した腕や足はチクチクと痛がゆくなり、やけどの痕のように黒くただれたといいます。
時速13キロの第五福竜丸が、母港の静岡県焼津港に戻ったのは被ばくから2週間後。平均年齢25歳だった乗組員23人全員が、急性放射能症と診断され入院しました。無線長だった久保山愛吉さんは同年9月、「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との言葉を残して亡くなります。
市田さんはいいます。「実験で使われたのはブラボー爆弾。称賛の意味です。広島型原爆の千倍の威力を持つ爆弾でした。いったいどこに使うつもりなのか。冗談じゃない」
焼津港に帰港した第五福竜丸がなぜ、夢の島公園にあるのか―。被害調査後、第五福竜丸は「はやぶさ丸」と名前を変え、練習船として東京水産大学で使われていました。67年に廃船となります。同年秋、ごみ処分場だった夢の島の泥水の中に捨てられ、沈みかけていたところを労組、民主団体が発見。「赤旗」報道で全国に知らされ、保存運動が始まりました。
65年には原爆ドームの保存が決まっていました。「原爆ドームを守った力を今度は福竜丸に」と運動が広がり、76年に現在の展示館が完成します。
原水爆禁止運動は、第五福竜丸の被ばくをきっかけに、大きく発展しました。現在は、国連加盟国192カ国中、133カ国が核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議に賛成。日本原水協がよびかける新しい「核兵器全面禁止のアピール署名」の取り組みも始まっています。
同館の安田和也事務局長は「平和の世論が世界を包んでいます。核と戦争と平和を考えるのがこの展示館。生き証人である第五福竜丸を残し、若い人たちに伝えていきたい」。
ビキニ環礁はいま世界遺産
米軍の核実験場となったビキニ環礁とエニウェトク環礁では、12年間で67回の実験が行われました。
昨年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、ビキニ環礁を世界遺産に登録。遺産委員会は「核実験の威力を伝える極めて重要な証拠」とし、スイス代表は「核時代の終(しゅう)焉(えん)に向かう最初の一歩だ」と語っています。
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