「 5 月 11 日 ( 水 ) 午前 9 時半〜午後 1 時」 8、地域の拠点病院として機能した、坂総合病院をたずね、職員からからヒヤリング
震災直後から、全国から、医師・看護師などの専門家、物資の支援が入り、 震災時の救急医療の拠点病院 の機能を果たし、 避難所の医療支援 なども行ってきている。
病院の患者さんをはじめ地域の住民を訪問し、孤立した方がいないかを見てまわったり、同じ系列の 松島診療所では全世帯訪問 を行って、住民の安否や健康状態のフォローを行っている。
行政には、 公立・私立をとわず被災した医療機関に対する支援や補償 を行ってほしい。 水・燃料などのライフライン、通信網などのバックアップ を充実してほしい。
坂総合病院 |
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※近年、医療の集約化が進んできているが、いざ災害と言うときは弊害になる。看護師不足も深刻で、人手と共に地域の見守りの拠点となる医療や介護のセンターが多数整備される必要性が明らかになったのではないか。 9、ケアハウス宮城野の里(福祉避難所の役割をはたす)を視察
宮城県では福祉避難施設の指定を設けている。特養ホームなどがもともと指定されている。当ケアハウスは指定を受けていなかったが、今回の震災を受けて指定された。
3 月 11 日は、デイサービスやケアハウスの利用者の方々をあわせて、 100 名ほどの避難者を受け入れた。廊下などに雑魚寝狂態であったが、 薪をつかって、震災当日から温かい食事を提供することができ、食事だけの人も集まってきていた。
雨水の保管と貯水槽に 12 トンもの水を備蓄していたので水不足はかろうじて対応できた。他の施設ではおかゆと梅干しのみという所もあったようで、ここにきて初めて。あたたかいものを食べた人もいる。
行政の対応では、医療機関が優先になるが介護施設も同等に対応してほしい。
自家発電などは高額なので、公的支援が必要。
支援物資は日々、必要なものが変化してゆくので、行政などで配給のコーデネートしてほしい。
福祉避難所として、現在も 8 名の方が利用されているが、今後の受け入れが大変。アパートは高齢で借りられない。特養ホームもたりない状況。 施設運営 としては、通常のサービスを停止し運営しているので収入がない状況。また、後追いでケアプランを作成しなければならず大変。医療は概算払い制度だが、介護は契約制度。福祉も医療も同レベルでの扱いにしてほしい。 ※福祉避難所の運営にも様々な課題があることが明らかに。こうした教訓をいかしてゆく計画が必要と感じた。
「 5 月 11 日 ( 水 ) 午後 1 時〜午後 5 時」(午前中は仙台〜釜石まで移動)
10 、釜石市の災害対策本部訪問、義援金を渡す
釜石市役所
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釜石市役所にて |
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←民間ボランティアの活動 |
市役所もライフラインが寸断し、駅前の公的施設を代用していた。全国の自治体や民間ボランティア、自衛隊も支援に入っている。写真参照
釜石市の様子
11 、北区職員が派遣されている小・中学校の避難所を訪問
●北区の課長から避難所( 93 人)の様子や職員の活動などヒヤリング。
日中は働きに出かけたり等、避難者の方も外にでているが、夜になると戻ってくるとの事。朝は自衛隊の方々が炊き出しをしてくれる。夜はお弁当の食事。
学童前の子ども達がいて、 4 才の子ども達と一緒に遊ぶ時間を持った。
●釜石市職員が避難所を訪問し 「仮設住宅の住民説明会」 を実施。
第 1 次申し込み 300 戸に、 3000 世帯の申し込み あり。 6 月上旬までに、めどが立っている仮設住宅は 2600 戸。「皆さんが全員は入れるようにすすめたい」と市職員。
住民からは「選定基準を明らかにオープンにしてほしい。」「第 1 次、第 2 次希望もはずれてとなってしまってはどうなのか。希望をくんでほしい」「仮設住宅に、水はちゃんと通っているのか」「仮設住宅がたってもすきまだらけで出た人がいると聞いているが大丈夫か」「住民票をうつせずにいるうちに被災した。ひとり親家庭だが、対応は最後になってしまうのか。とても不安だ」など、切実な訴えが相次いだ。しかし住民の皆さんは、職員の苦労もおもんばかり、 2 か月も避難所生活が続いているが、声高にということではなく、冷静な話し合いをすすめている状況で頭が下がる思いだった。
避難所には、山口大学 精神科の心のケアチーム、巡回健康相談チーム、他自治体職員などが複数で支援に入っていた。
湾岸部より駅の山側は一見、被害は目立たない。ライフラインは支障があるかもしれないが。市も仮設を建てていく意志あり。話を聞いて、北区が用意した避難施設に行きたいという住民感情は難しいなあ、ここで生活再建をしたいという気持ちが強いのではと感じた。
12 、釜石の津波被害のあった港周辺市街地を訪問。 写真参照
あまりの津波被害の惨状に言葉を失った。戦地の廃墟のよう。以前、港の商店街を訪れた時があったが見る影もない。この土地に生活していた住民の皆さんを思うと本当に胸が苦しい。 |
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3 日間という短い時間でしたが、 2 か月後の被災地を訪ね、その被害の甚大さを実感すると共に、言葉にあらわせぬ大きな苦しみ、悲しみを抱えながら、懸命に生きている被災地の皆さんに接し、生活再建・復興に向けて行政がなすべきことを考えました。また北区の取り組みにも生かしてゆこうと決意を新たにしました。
大変な中、対応してくださった関係機関の皆様、お話し頂いた住民の皆様にも心より感謝申しあげます。本当にありがとうございました。
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