高校時代
映画と柔道に熱中 平和運動も
1963年5月、愛知県刈谷市で生まれました。共働きで電電公社(今のNTT)に勤めていた共産党員の両親は、勤労者にちなんだ名前をと考え、刃物を研ぐ職人の労働から「研」と名づけました。2人兄弟の兄は、農民の労働から「耕」(こう)という名前をもらいました。
当時、刈谷市には8本の鉄塔がそびえ立つ米軍依佐美(よさみ)基地が置かれていました。小学2年から「柔道一直線」にあこがれ柔道を始めましたが、中学校で柔道部に所属し、よく鉄塔までランニングしたものです。下から見上げると250メートルの鉄塔が空にゆらゆらと揺れ、不思議な感覚に陥ったものでした。この鉄塔が、実は米軍の潜水艦に指令を出す危険な戦争基地であることを知ったのは、高校卒業まぎわの時期でした。のちに愛知県で開かれた日本平和大会(93年)に参加した私は、依佐美基地を「人間の鎖」で包囲し、「米軍基地は撤去を」と訴えました。その後、依佐美基地は94年に日本に全面返還されました。
高校時代には、柔道と映画にハマりました。部活が終わると、週末には名古屋まで出かけ映画館をはしご、3本500円の映画館でジェームス・ディーン3部作に熱狂するなど、年間60本の映画を鑑賞するような高校生でした。