地域で活動されていた日本共産党員の大先輩である中祖百合子さんが82歳の生涯を閉じられ、17,18日とお別れの会に参列しました。
中祖百合子さんは、4歳の時にお父さんを特高警察にとられました。
百合子さんのお母さんは乳飲み子を抱えながら必死で働き、病気になって、ついに亡くなられたそうです。
4歳だった百合子さんは、お母さんをのせた人力車が長屋の角を曲がるとき、裸足で追いかけて泣き叫んだーと残した詩に綴っています。
少女になった百合子さんは父を捕らえ、母を奪ったのは治安維持法と知ります。
働きながら、戦争をくぐりぬけた百合子さんは1946年の総選挙で、反戦の旗をかかげて闘った日本共産党候補に、はじめての一票を投じました。
青春時代は、松川事件の裁判闘争の支援に全力を傾けました。
1961年8月8日の仙台高裁の差し戻し審判決は無罪の勝利判決。
その判決を前に書いた「そのときのために」という詩は、全力をあげた松川活動家のすべての気持ちをあらわすものとして「松川15年 真実の勝利のために」の中にかかげられています。
働くこと。書くこと。闘うことが大好きだった百合子さん。
私が区議会議員選挙に初挑戦した1995年。百合子さんは革新の北区長候補として立ちました。
自らの生い立ちを語り、平和への願いを切々と訴える百合子さんの話に、私を含め、多くの人々が胸をうたれました。
権力の思惑をみぬき、くらしや平和の願いを凛として訴える百合子さんの姿が、心にはっきりと刻まれています。
中祖百合子さんの志を引き継いで頑張ります。 |