活動日誌

2011年12月31日(土)

今年も1年、大変お世話になりました

あと数時間で、新しい年、2012年を迎えます。

今年は、3月11日の東日本大震災、福島第一原発事故によって、日本社会のあり方そのものが問われた年となりました。震災直後から、被災地支援、放射線から子どもや区民を守る運動、災害に強いまちづくりに全力をあげてきましたが、これらは年を越しても引き続き正面からとりくむべき課題です。

来年こそ、「原発ゼロ」の日本にむけて、大きく前進をかちとる年にしたいものです。

また、4月の区議会議員選挙では、日本共産党9人全員の当選をかちとることができました。私も、2期目の活動に全力を尽くしています。今後とも、みなさんの声を区政に生かすために、日本共産党ならではの活動をすすめてまいります。

政権交代への期待を次々と裏切り、公約違反を重ねてきた民主党政権に怒りが広がっています。今まさに、「二大政党」の虚構が国民の前にあらわになっているのではないでしょうか。社会保障改悪と消費税増税の「一体改悪」をストップさせ、アメリカ・財界のいいなりになってきた日本政治のゆがみの大もとにメスを入れる日本共産党の躍進こそ、国民の手に政治をとりもどす道だと確信します。

2012年も、みなさんのあたたかいご支援をお寄せいただきますよう、よろしくお願いいたします。

2011年12月24日(土)

音楽と自然を楽しむ恵那峡の旅(その2)

2日目の朝。前日の夜は暗くて気がつきませんでしたが、ホテルの窓からは恵那峡の絶景が広がっています。さっそく温泉で朝風呂を浴び、露天風呂から朝日に染まりゆく桃源郷を眺めました。

 

恵那峡の旅01

 

朝食までは少し時間があるので、散策でもしてみようと外に出ると「大井ダムへの道」の標識が。落ち葉をふみしめながら、木々の茂る小道を進んでゆくと、10分ほどでダムがその姿を現しました。

 

恵那峡の旅02

 

恵那峡の旅03

 

恵那峡の旅04

 

袂まで行くと、なんとダムは「渡れます」とのこと。幅わずか1mほどです

が、歩いて向う岸までたどり着くことができました。ダムの上から渓谷を見下ろすと、差し込む朝日に水面が揺れて、幽玄な雰囲気がかもしだされていました。

 

恵那峡の旅05

 

恵那峡の旅06

 

ダムの裏側には大井、新大井の2つの発電所があります。木曽川の流れをせき止めるダムの壁は、温泉の影響なのか、鉄分がしみ出してところどころ茶色に変色していました。

 

恵那峡の旅07

 

恵那峡の旅08

 

向う岸には、大井ダムをつくった福沢桃介の業績を紹介する写真や記念碑、「独立自尊」と書かれた福沢諭吉のレリーフがありました。諭吉は桃介の養父にあたります。

大正時代のダム建設。これだけの土木工事は、さぞかし大仕事だったであろうと察します。そういえば、さきほど通った小道には、ダム工事で命を落とした作業員を供養する碑が建てられていたことを思い出しました。

 

恵那峡の旅09

 

恵那峡の旅10

 

大井ダムと書かれた標識の前で記念撮影。といっても、1人で来てしまったので、セルフタイマー撮影です。

 

恵那峡の旅11

 

このあと急いでホテルへ戻り朝食。午前9時30分にはバスに乗り込み、恵那峡遊覧船の出る船着き場へと出発しました。

恵那峡を一望できる遊覧船は、高速ジェット船。木曽川流域を1往復約30分で周回します。人口湖とはいえ、両岸には巨大な奇岩・怪岩が立ち並ぶ360度の大パノラマ。オシドリの群れにも遭遇し、大自然に酔いしれる時間を過ごしました。

 

恵那峡の旅12

 

恵那峡の旅13

 

恵那峡の旅14

 

恵那峡の旅15

 

このあと、バスは恵那峡をはなれて一路南下、明智光秀が生まれたと言い伝えられる明智町へ、日本大正村を訪ねました。

日本大正村は、国鉄明智線の廃線によって過疎化の危機に直面した明智町が、観光の拠点として町全体をレトロな雰囲気につくりかえようとのりだした町おこしの事業で、大正時代の古き良き建物をそのまま残しながら施設や道路を整備していったものです。

 

恵那峡の旅16

 

恵那峡の旅17

 

1984年5月に立村、初代の村長は女優の高峰三枝子で、現在は2代目の司葉子さんがつとめています。今年は大正から数えて100年目にあたるということから、村全体に「大正百年」のポスターがはられ、のぼり旗がはためいていました。

大正ロマン館は、その名の通りロマンチックな大正時代を感じさせる展示館。常設展示はそこそこでしたが、2階で開催されていた「源氏物語・百人一首 水谷優峰の世界」には引き込まれました。書道家である水谷氏が、「源氏物語」の魅力を知ってもらおうと口語体で物語を要約した絵巻物「源氏物語入門」。まるで印刷されたかのように整然と記された筆文字と、色彩豊かな挿絵に息をのみました。

 

恵那峡の旅18

 

その後、大正村資料館やおもちゃ資料館をまわり、大正浪漫亭で大正時代に流行ったという和洋折衷の洋食「ハヤシライス」をいただき、おみやげを買い込んで帰りのバスに乗り込みました。

恵那ICから中央高速に入り、途中3ヵ所で休憩をとりながら東京へ。さしたる渋滞もなく、予定通り午後8時には赤羽に戻ることができました。

2011年12月23日(金)

音楽と自然を楽しむ恵那峡の旅(その1)

12月23日から1泊2日で、岐阜県恵那市を訪れました。今回は、「どうすりゃいいのさ高齢者」を作詞作曲した影山マキさん、宮川つとむさんにお誘いいただき、バスツアーに参加することになりました。

 

恵那峡の旅01

 

このたび影山・宮川両先生がつくった新曲「恵那峡情話」「恵那峡観光音頭」の発表会がご当地でおこなわれることになり、東京からも応援にかけつけようと急きょツアーが組まれることになりました。恵那の素晴らしさについては、かねがね先生方からお聞きしていたので、今回は日本共産党志茂・赤羽後援会の仲間4人とともにご一緒させていただくことになったわけです。

まだ薄暗い午前6時20分すぎに赤羽をバスで出発、総勢29人のツアーがはじまりました。首都高速から中央道に入り、まずは談合坂SAで第1回目の休憩。次に諏訪湖SAに止まった時には、時計は9時40分を指していました。

 

恵那峡の旅02

 

この辺りまで来ると、南アルプス、八ヶ岳、中央アルプス、富士山といった峰々が目に飛び込んできます。絶好の晴天の下にくっきりと浮かび上がる北岳や赤岳を眺めながら、これらの山頂を制覇した昔の登山を思い起こしました。

恵那ICで高速を下り、お昼前には予定通りコンサートがおこなわれる恵那文化センターに到着しました。

 

恵那峡の旅03

 

12時30分に始まった新曲発表会。恵那市にとっては一大町おこしの行事に位置づけているとみられ、可知義明市長も来賓としてあいさつにみえました。市長のお話では、木曽川中流の「桃源郷」と呼ばれた恵那峡も年々観光客が減っており、かつての年間150万人が、現在では50万人とのこと。今回の企画には、恵那の素晴らしい自然をもう一度全国にアピールしようという意気込みが強く感じられました。

この後、第1部として地元代表のみなさんによる踊りとカラオケが披露され、続いてアルパ奏者の倉品真希子さんが「コンドルは飛んでゆく」「川の流れのように」などの名曲やオリジナル曲をハープで演奏しました。

 

恵那峡の旅04

 

第2部は、プロの歌手による歌と秋岡秀治&若菊さんの新曲発表会です。

その前に、ご当地の要請にこたえて素晴らしい恵那の歌をつくった影山先生、宮川先生も登壇し、曲への想いを熱く語られました。

ステージでは、恵那市に母親が住んでいるという岡山の歌手、吉備麿(きびまろ)さん、北区で77歳にして歌手デビューしたさとう千恵さん、美川憲一さんのものまねで売っているコピー美川さんが次々と登場。個性を生かした持ち歌を披露しました。

 

恵那峡の旅05

 

恵那峡の旅06

 

さて、いよいよ新曲の発表です。地元恵那出身の若菊さんは、「恵那峡旅情」「湯けむり哀歌」をしっとりと歌い上げ、会場から大きな拍手を受けました。

 

恵那峡の旅07

 

そして、秋岡秀治オンステージです。実力派演歌歌手としてテレビなどでも活躍している秋岡さん、軽やかなトークも加えて、さすがに聴くものをうならせる熱唱でした。フィナーレでは、地元のみなさんの踊りも加えて「恵那峡観光音頭」をアンコール。楽しい4時間があっという間に過ぎていました。

 

恵那峡の旅08

 

ここで2つの新曲について、少しだけ紹介します。

奇岩怪石に囲まれ、水と緑の絶景が広がる恵那峡ですが、実は木曽川をせき止めてできた人造渓谷です。大正13年に完成した大井ダムは、日本初の水力発電で、現在も関西電力が8万4千キロワットを供給しています。

後に「日本の電力王」とよばれた福沢桃介が洪水による資材流出など困難を極めた工事の末、ダムの完成にこぎつけましたが、その陰には日本初の女優といわれた川上貞奴(さだやっこ)の支えがあったといわれています。「恵那峡情話」は、2人の恋をモチーフにした歌で、水力発電にかける桃介の燃える想いと「かくれ妻」として命を重ねた貞奴の献身が抒情的に歌われています。

一方、「恵那峡観光音頭」は、さざなみ公園、遊覧船、笠置山、五平餅、大井ダムなど、恵那峡の魅力が次々と飛び出すテンポよい曲。これさえ覚えれば恵那峡のすべてがわかる、ご当地ソングとなりました。

 

恵那峡の旅09

 

ちなみに2曲を収録したCDは日本クラウンから発売されており、全国のCDショップで発売中。DAMにも登録され、カラオケでも歌えます。

コンサート終了後は、バスで恵那峡グランドホテルへ。豪華な夕食とカラオケを楽しみ、疲れた体を温泉に沈めて、1日目を終えました。

(2日目に続く)

2011年12月19日(月)

第6回災害対策のあり方検討会を傍聴

この夏から開催されてきた「東日本大震災を踏まえた今後の災害対策のあり方検討会」。最終回となる第6回の会議が北とぴあで開かれ、傍聴してきました。

小澤委員の講演受けフリーディスカッション

消防大学校講師の小澤浩子委員による講演を受け、防災に関する人材教育及び地域等におけるネットワークづくりのあり方についてフリーディスカッション。災害時に力を発揮する防災リーダーの育成については「町会などに人材がいないわけではないが、育成はなかなか困難」との声が出される一方、学校単位での防災訓練では、「保護者やPTAの役員など、若い人たちが率先して参加してくれた」などの経験が紹介されました。

楽しみながら意識の向上を

東京大学の加藤委員は、「『人材育成』という『上から目線』が気になる。育ててやる、ではなく問題意識をもてるような環境づくりが大事」と、川でボート遊びをしながら水害訓練にとりくむ葛飾での例を紹介しました。

これまでの検討結果は「提言」として区長に答申。今後の北区の防災計画づくりに生かされます。

2011年12月13日(火)

地域開発特別委員会で十条の踏切を視察

午前中、地域開発特別委員会の視察がありました。視察といっても、十条まちづくりの調査のために、十条駅周辺の踏切を見て回るというものです。

9時半に十条駅西口ロータリーに集合。議長、副議長、八百川委員長以下13人の委員、行政から所管のまちづくり部長はじめ4人の理事者、そして議会事務局4人の総勢23人で、ぞろぞろと歩きながら5つの踏切を順次視察しました。

 

十条踏切視察01

 

この地域は木造住宅密集エリアで、住宅市街地総合整備事業によって居住環境の向上をはかることが計画されている場所です。東西の交通を遮断する「開かずの踏切」は、JR埼京線の鉄道立体化によって解消をめざしています。

おおよその踏切は通ったことがありましたが、一番北側の北仲原踏切は初めてでした。遮断機の手前に頑丈な柵が取りつけられており、通行に不便だと思っていたところ、地元の八百川議員から「踏切の先に銭湯があり、お年寄りが急いで渡ろうとして事故が起きたので、こうした対策をとった」と聞きました。

 

十条踏切視察02

 

確かにこの踏切では、2007年以来3件の死亡事故が起きています。

すべての踏切を見終えて、視察のまとめと委員会を開催するために、タクシーに分譲して中央公園文化センターに向かいました。現在、北区役所の委員会室は耐震補強工事中のため使用できません。そのために、文化センターの学習室を借りたわけです。

戦前、陸軍の兵器工場本部として使われていた建物で、白亜の外観が歴史を物語っています。

 

十条踏切視察03

 

視察のまとめで私は「鉄道立体化をふくめ、十条のまちづくりを地元住民のみなさんの声をよく聞きながらすすめることが大切だと実感した」と感想をのべました。

続いて委員会を開き、十条地区まちづくり基本構想2011のパブリックコメントに対する区の考えについて、報告と質疑がおこなわれました。駅前の超高層マンション計画や旧岩槻街道の拡幅、木造住宅密集地域の解消、鉄道立体化と課題の多い十条まちづくりですが、目先の利益ではなく、50年、100年先を見通した計画づくりが求められていると思います。

2011年12月10日(土)

日比谷野音で「さようなら原発」集会

6万人の参加者が明治公園をうめつくした9月19日の「さようなら原発」集会から3ヵ月。いまだ福島第一原発の事故は収束のメドすらついていません。それどころか、東京電力は、溶け落ちた燃料のすべてが原子炉の底を突き破り格納容器に落下、底のコンクリートを溶かしていたことを明らかにしました。一刻も早く原発はなくさなければなりません。

今日は、9月に続き、さようなら原発1000万人アクション実行委員会が主催する「さようなら原発」集会が日比谷野外音楽堂で開かれ、参加しました。

 

さようなら原発集会01

 

司会をつとめるのは講談師の神田香織さん。先日、北区での脱原発講演会に来ていただいたばかりですが、やはり福島県いわき市出身ということで、気合の入った司会ぶりでした。会場に来る前には、有楽町駅前で署名行動もおこなってきたそうです。

集会では、よびかけ人の鎌田慧さん、大江健三郎さんがあいさつ。大江さんは「1000万署名を提起したのは澤地久枝さん。1000万の署名を集めれば、政治を動かすことができる。100万ではだめだ。何としても集めきろう」とよびかけました。

 

さようなら原発集会02

 

続いて、署名活動にとりくむ運動家や被災地・福島からの代表が登壇、原発ゼロへの想いを訴えました。いまも南相馬市に住む被災者の竹中柳二さんは、測定を始めた5月からの積算放射線量が997マイクロシーベルトに達したと報告。しかし国は何の対策も講じようとせず、原子力安全委員会も保安院も誰一人責任をとっていないと告発し「3月11日以来、いったい何がかわったというのだ」と怒りをぶつけました。

このあとおこなわれたパレードには時間の都合で参加できませんでしたが、集会に集まった5500人の参加者と同じ「なくせ原発」の思いを胸に、会場を後にしました。

 

さようなら原発集会03

 

帰りは久しぶりに日比谷公園を通ってきましたが、噴水にかかる虹がとてもきれいで、思わずパチリ。ほっとする一瞬でした。

2011年12月5日(月)

超高層の十条駅西口再開発 地域開発特別委で近隣説明会結果報告

地上147m、37階建ての分譲マンションを中心にした十条駅西口再開発計画。これをすすめている再開発準備組合はこの間、地元向けに計画についての近隣説明会をおこなってきました。本日開かれた北区議会地域開発特別委員会で、その結果が報告されました。

11月25日から28日までに開かれた4回の近隣説明会は、計画地から建物予定高さの2倍の範囲にポスティングでよびかけられ(計5087枚)、出席者は計124名でした。準備組合側からA3用紙裏表2枚の資料にもとづいて、

  • 施行予定区域
  • これまでの経緯
  • まちづくりの考え方
  • 計画概要
  • 周辺市街地への影響検証
  • 今後の進め方

などの説明があり、その後、参加者からの意見や質問を受けたそうです。出された意見については、テーマ別に49項目に整理してしめされました。

委員会では、組合側による結果報告に対し、民主の委員から「地権者向けにおこなった説明会での意見は」「駅前立体交差事業との関連は」など、公明の委員から「ランドマークとして十条のシンボルとなるようにしてほしい」「シャトルバス構想の具体化は」などの質問や意見がありました。

日本共産党の本田正則委員は「地権者の権利についての合意はどうなっているか」「地元商店街への影響をどう考えるか」「保留床(分譲マンション部分)は売れ残る心配はないのか」「独身の若者たちが定住化できる計画に見直すべきでは」と質問。参加組合員として参画している東急不動産の説明者は「500床の分譲は問題なく売却できる。田町や二子玉川でも1000戸規模のマンションが完売している」などと答えました。

私は、「超高層」の計画について、3点質問しました。

風害について

1点目は、風害についてです。組合側は、風環境について「風洞実験をして検証した」と説明しました。しかし、その予測結果としてしめされたのは、このペーパー1枚です。

十条再開発01

うす緑の丸(領域A)は住宅地相当、青の丸(領域B)は低中層市街地相当の風ということで、風害は予想されない、との結論です。私は、せっかく周辺の建物まで再現しての模型実験をやったのならば、その数値を含めて詳細な資料を出してほしいと要求しました。超高層となれば、かなりの風害も予想されるので、結論だけでなく風洞実験の検証データが必要だと思ったからです。

組合側の答えは「いま出せるデータはこれだけ。詳細な数値などについては出せるかどうか検討したい」とのことでした。

圧迫感について

2点目は、超高層建築物による圧迫感です。組合側は、「周辺各地から高層ビルがどのように見えるかイメージ図をつくって検証したところ、それほど影響は見られない」と、次のように何枚かの合成写真をしめしました。

十条再開発02

十条再開発03

十条再開発04

確かに、これらのイメージ図ではそれほど目立たないような印象です。しかし、37階の高層ビルを目の前にした建物周辺の地域ではどうでしょうか。「十条駅改札口前より」とした下の図では、明らかに相当な圧迫感があります。

十条再開発05

 

私が「遠くからの風景だけでなく、直近からの建物の見え方と、その圧迫感について、どんな影響が出るのか検証すべきでは」と質問したところ、組合側の答えは「高層ビルが近くにある場合、普通の人は上の方には目がいかない(から大丈夫)」というものでした。

近隣説明会では「37階建ての建物を建てる意味をお聞きしたい」「自分たちの生活の中で馴染むものか心配。田舎の故郷のような再開発をして欲しい」「37階のビルが建つと駅前が真っ暗になるのではないか」などの意見もあるので、ていねいな検証と説明が必要だと感じました。

震災時の影響について

東日本大震災の経験から、高層マンションでの危険にもあらためて注目が集まっています。大きな地震が起きた際、高層階では揺れが増幅し、動き回る家具が凶器になるということ、エレベーターが停止すれば、高層階でお年寄りなどが孤立してしまうことなども、想定しておく必要があります。

私は、こうした点への備えについて質問しましたが、組合側は「だんだん情報が出てきているところであり、これからさらに検証をすすめる。中層階などに備蓄倉庫をつくるなどの対策は考えている」などと答えました。

超高層計画は見直すべき

最後に私は、質疑をふまえ「十条らしさを損なわず、周辺への影響を最小限に抑えるためにも、37階の超高層計画は再検討するべきではないか」と問いました。これに対し組合側は「初めは高さが170m台だったものを147mまで下げた。これがギリギリの線。ぜひこの計画通りやらせてもらいたい」と答えました。

今後、この計画は、2012年度に都市計画手続き、2013年度に本組合設立、2015年度に施設工事着工、2017年度に竣工という予定にそってすすめられます。まだまだ地権者や周辺地域のみなさんとの調整も必要となってくると思いますが、北区にとっても大きな財源を投入するまちづくりプロジェクトの1つですので、多くの区民のみなさんの意見をお寄せいただきたいと思います。

委員会ではまた、パブリックコメントを終えた「十条地区まちづくり基本構想2011」の内容についても説明を受けました。これについては、今月13日に再度開かれる地域開発特別委員会をふまえて、別途報告することにします。

2011年12月4日(日)

神田香織さんが語る「ふるさと福島」―脱原発をめざす講演会in北区

3.11の福島第一原発事故をうけて、超党派で「原発をなくそう」と話し合いを続けてきた北区脱原発をめざす交流会が、赤羽北区民センターで「脱原発をめざす講演会in北区」を開催しました。私もスタッフの1人として準備から参加しました。

主催者あいさつの後、ドキュメンタリー映画「子供たちを放射線から守れ 福島のたたかい」を上映。続いて、福島県浪江町から北区に避難している門馬洋さんが被災者としての苦渋の思いを訴えました。

門馬さんは、ゴルフ場から除染を求められた裁判において東京電力が「飛び散った放射性物質は無主物であり東電の所有物ではない」などと主張していることを痛烈に批判、「下品なことをいうようだが、東電の関係者に対し、浪江町に住んで水を飲んでみろ、孫を原っぱで遊ばせてみろ、といいたい」と怒りをぶつけました。

北区子どもを放射線から守る会の代表は、内部被ばくの対策を求める区議会陳情に向けて、わずか2週間で5389筆の署名が集まったことを報告。陳情は不採択や継続審査とされたものの、放射線対策を訴える区民の声は確実に広がっていることを紹介しました。また、北区の子どもにも爪からウランが検出されたり、鼻血が止まらなくなるなど、すでに健康被害が起きているとのべ、「心配しすぎなどと私たちを否定しないでほしい」と訴えました。

 

脱原発講演会01

 

続いて、メイン講師の神田香織さんが着物姿で登場。「いま、ふるさと福島は」の演題で講演を始めました。

神田さんはまず、6年前まで住んでいたという福島県いわき市が、原発事故でどうなったかをここ数ヵ月の変化に則して紹介。続いて、講談の世界に入るきっかけや、「はだしのゲン」やチェルノブイリを題材にした立体講談を演じ続けてきた思いを熱く語りました。

神田さんは「いま原発の問題は、本気になってとりくまなければならないこと」と指摘し、福島県が自主避難者への住宅支援の打ち切りを他県に要請していることを厳しく批判。また、放射線量の高い地域では、除染をしても放射性物質を移動させるだけで「移染」にしかならないという声があることも紹介しました。

 

脱原発講演会02

 

現在、北区に住んでいるという神田さん。いわき市から上京する際、東京都内で「広くて安い」物件を探していた時に、ピッタリだったのがいまの住居だったというエピソードも紹介してくださいました。

講演の最後には、講談流の発声方法も伝授、参加者がいっせいに「あー、あー、あー」と大声をあげる一幕もありました。

新社会党、社民党、共産党(八百川孝、福島宏紀、宇都宮章、ながいともこ、のの山けん)の現職区議、民主党の前区議なども参加し、超党派でとりくんだ今回の企画。初めての挑戦でしたが、100名近くが集まり大成功だったと思います。

 

脱原発講演会03

 

終了後には、神田香織さんが紹介した自著2冊「バツイチ子連れ、泣き笑い半生記 花も嵐も、講釈師が語ります。」「乱世を生き抜く語り口を持て」を購入、ばっちりサインもしてもらいました。

そして、何と! 神田さんは、赤羽の飲み屋でおこなった反省会にもお付き合い下さり、実行委員会などのメンバーとともに、熱く熱く「脱原発」の思いを語ってくれました。本当におつかれさまでした。

一刻も早く日本から原発がなくなるよう、さらにがんばってゆきましょう。

2011年12月4日(日)

北区障害者作品展を見学

十条にある障害者福祉センターを会場に、昨日から2日間の日程で開かれている第29回北区障害者作品展を見学してきました。

北区にはたくさんの障がい者団体があり、会場の1階から3階までを使って、手芸品、絵画、写真、編み物など障がい者のみなさんの素晴らしい作品を展示していました。

今回は初めて点字の名刺づくりに挑戦。1文字を6つの点の組み合わせによって表し、紙の裏からボールペンのようなもので突起をつくってゆきます。最後にできたものを視覚障碍者の方に渡したら、ちゃんと「ノノヤマケンさんですね」と読んでくれました。すごい!

 

障害者作品展01

 

この作品は、いつも早朝駅頭宣伝で声をかけてくれるOさんの手によるもの。毎月1回の書道教室で練習しているそうですが、先生をも唸らせるほどの上達ぶりではないでしょうか。

1階の訓練ホールでは、音楽サークル「アミーチ」のみなさんによる軽音楽、「さくら会」のみなさんによる合唱の演奏会が開かれていました。この日のためにと一生懸命練習してきたそうです。

 

障害者作品展02

 

合唱では、私の大好きな「カントリー・ロード」も披露してくれました。最後は聴衆のみなさんともいっしょに「上を向いて歩こう」「ふるさと」を合唱。私もいっしょに歌いました。

会場をぐるっと回ると、知り合いの方からたくさん声をかけられました。施設長さんにも会い「来年は節目の30周年。ぜひ期待して下さい」とのこと。最後に、お昼ごはんにと焼きそば、赤飯、いそべ焼きを買って帰途に着きました。

2011年12月2日(金)

北区革新懇のTPP問題学習会に参加

北とぴあで開かれた北区革新懇のTPP問題学習会に参加しました。講師は、横浜国立大学の萩原伸次郎教授で、「米国のTPP戦略と日本―日本の農業と食料、医療と地域経済、暮らしはどうなる―」と題してお話をしていただきました。

TPPは農業や食料の問題と思われがちですが、演題にもあるように、医療や地域経済、働き方など「非関税障壁」とよばれる問題も大きく影響を受け、あらゆる面でこれまでの日本の制度がこわされてしまう危険があります。萩原教授は、こうしたTPPの背景に米国の戦略があることを事実に則して解明、米国にとって都合の悪かった鳩山政権を、財界を抱き込んでつぶすことまでやってのけたとのべました。

 

TPP学習会

 

さらに萩原氏は、日本の財界がTPPへの参加を通じて、1998年の橋本「改革」(第1の構造改革)、小泉「構造改革」(第2の構造改革)に続く「第3の構造改革」路線に突き進む野望をもっていると指摘しましたが、この解明はとても興味深いものでした。

国民の声には耳を貸さず、米国と財界の忠実な僕となって売国路線をひた走る野田政権。農協や医師会にも広がった反対運動をさらに大きく発展させ、TPPへの参加を食い止めてゆきたいと思います。

2011年12月1日(木)

北区民商「第4回夜のオリエンテーリング」

第4回目を迎えた北区民主商工会の「夜のオリエンテーリング」に参加しました。「どうせ飲むなら安くて美味しい地元の名店で!」と、地域活性化の運動として始まったこのイベント、今回は過去最高の100人近くの参加者が、スタート地点の赤羽文化センターに集まりました。

 

民商オリエンテーリング01

 

民商の宇津木会長のあいさつに続き、鳥居事務局長からオリエンテーリングの説明がありました。参加者は3~4人のグループをつくり、3000円の会費で事前に指定された赤羽、志茂、十条地域の3軒のお店をまわります。最後のお店に午後9時までに入り、まわったお店で集めたスタンプカードを提出すると、後日、抽選で商品券が当たるというルールです。

さっそく浮間のKさん、赤羽北のMさん(両方とも男性です)と組をつくり、3人で出発することにしました。

最初のお店は、赤羽一番街にある「かぐら」。いつもお世話になっているなじみのお店です。ここではボリューム満点のしゃぶしゃぶと刺身というメニューに「ドリンクは何杯でもOK」というサービスぶり。1店目から得した気分で料理を楽しみ、次の店へと向かいました。

 

民商オリエンテーリング02

 

2店目は、赤羽1丁目のスナック「落合」です。広い店内に、音響抜群のカラオケ。サービス精神旺盛なマスターとママのもてなしで、焼酎の水割りをいただきました。

もちろん、ここへ来たからには「歌わにゃ損」とばかりに、かわるがわるマイクを握りました。私も最近覚えたBEGINの「防波堤で見た景色」ほか、2曲を熱唱(?)しました。

 

民商オリエンテーリング03

 

最後のお店は、やはり赤羽1丁目、東京メトロ赤羽岩淵駅そばにある「喜多川」です。うなぎの専門店ということで、出てきたのは鰻の頭と肝の串焼き。普段はあまり口にすることがない部位ですが、タレが絡まり、美味しくいただけました。

一緒にまわっていただいたKさん、Mさんとも、心地よい酔い加減で別れ、夜のオリエンテーリングを終えました。たまにはこういう企画もいいものですね。調子にのって飲みすぎには注意ですが。