活動日誌

2011年10月30日(日)

健康福祉委員会 愛知視察のまとめ

先週、25日・26日の両日、北区議会健康福祉委員会の管外視察で愛知県を訪れました。今回のメンバーは、各会派の委員9人、理事者3人、議会事務局2人の計14人。私は委員会の副委員長という立場で参加しました。現地で学んだことをまとめておきたいと思います。

第1日目 豊橋市

初日の25日は、豊橋市の「こども未来館ここにこ」の視察。午前10時すぎに東京駅に集合し、新幹線で豊橋まではわずか1時間半です。駅前の食堂で昼食をとり、目的の施設までは徒歩で約10分でした。それにしても、県内第2の都市というわりに、駅前の閑散としていること。地方の疲弊を痛いほど実感しました。

 

 

こども未来館は、想像していた以上に巨大な建物。もともとは715床を有する市立病院の敷地だったが、1996年に経営難のため移転、当時「子どもの還元施設に」と公約を掲げて当選した市長のもとで、この施設の建設に至ったとのことでした。

 

 

館長からお話をうかがうために、さっそく2階の研修室に案内されましたが、ご覧の通り、上から入口付近を眺めると、かなりゆったりとした空間が広がっています。ここは「ここにこ広場」というスペースで、屋外の広場とともに、多彩なイベントが開催される場所とのことです。

 

 

あいさつを交わした後、館長からパワーポイントを使って、施設の概要を説明していただきました。まず、名称については「ここに来たらにこにこ」という意味で「ここにこ」と命名。2000件の応募の中から決定したそうです。敷地面積は1200㎡。このほか、旧病院の分院として使っていた隣接用地が3000㎡あり、今後の活用を考えているとのこと。

現在の施設では「ささえる」「ためす」「ふれあう」という3つの機能を備えており、一日の平均来館者数は1869人にものぼります。管理運営は、直営の部分と委託の部分に分かれており、指定管理者の中心には小学館が入っているそうです。名称は、こども未来館となっていますが、子ども専用ではなく、多世代交流型の施設として提供しているところが一番の特徴だと館長は語っておられました。

お話の後、若干の質疑をおこない、さっそく館内を案内していただくことになりました。まずは「ためす」を体現する「体験・発見プラザ」です。

 

 

ここでは、子どもたちの好奇心をそそり、創造性を育むさまざまなコーナーが設置されています。ちなみに、この部分だけは有料で、小・中・高校生は100円、大人は200円の入場料がかかります。

最初に、メディア工房という部屋に案内されました。AV機器がところ狭しと並んでおり、簡単な実験ができます。ビデオカメラの前に立って正面のモニターを見ると、ご覧のような合成の動画映像が。テレビの天気予報などで見慣れてはいるものの、実際に子どもたちが体験してみたら、大喜びすることうけあいです。

 

 

「まち空間」と呼ばれる遊び場では、積み木、着せ替え人形、パズル、電子ブロックなど、さまざまなおもちゃが詰まった50種類以上の「体験セット」が借りられます。

このようにサンプルの箱が並べてあり、気に入ったセットをステーションに申し込めば貸し出してくれます。人気のセットはいくつも用意してあるとのことでした。

 

 

これは「ケーキセット」。実際には食べられない模造品ですが、小さな女の子は楽しんで遊ぶでしょうね。もちろん、お父さん、お母さんもいっしょに遊ぶことができます。

 

 

「ドリームタウン」と呼ばれるスペースには、「アトリエ」「ラボ」「クリニック」「ファクトリー」「サロン」という5つのブースがあり、子どもたちが興味に応じて体験・発見できる空間になっています。このブースは、身近にあるふしぎな現象を調査・研究できる「ラボ」の部屋です。

 

 

「キッズパーク」には、体を動かしながら遊べる遊具がいっぱい。写真のエアーキャッスルは幼児用のトランポリンです。このほか、豊橋市内を走る市電を模した「レトロ電車モ3702号」では、車内で運転シミュレーションが楽しめます。

 

 

屋外にもアスレチック型の木製遊具が設置してあり、天気の良い日は外でも元気に遊べます。

 

 

さて、こちらば体験・発見プラザの各種工房のうち「キッチン工房」と呼ばれる部屋です。体験プログラムとして事前予約が必要ですが、展示、木工・工芸、料理のための専用室が用意されており、大人も子どももいっしょになってものづくりを楽しむことができます。

この日は、親子のための料理教室がおこなわれていました。

 

 

次に「ささえる」を体現する「子育てプラザ」にやってきました。乳児から幼児まで幅広く利用できるスペースで、土・日・祝日には、こども未来館の利用者のために託児サービスもおこなっているとのことでした。

受付のカウンターを通ると、のびのびとしたフローリングの空間が広がり、全面ガラスの窓からは日の光がいっぱいに差し込んできます。

 

 

大型の遊具も充実しています。こちらは「ちびっこの森」という複合遊具で、小さな女の子がお母さんの手を借りながら一生懸命にスロープを登る姿を、しばし微笑ましく眺めていました。

 

 

時を忘れ、童心に返って施設見学を楽しませていただきましたが、最後に「ふれあう」を体現する多目的スペースの「集いプラザ」、例の「ここにこ広場」に戻ってきました。ここでは、大型の展示や200名規模の講演会、朗読、読み聞かせ。子どもの発表会、歌、ダンス、三味線、高校生のオーケストラ、相撲大会、昔ながらの駒遊び、フリークライミング、紙芝居など、あらゆる行事に活用されているとのこと。

また、屋外の芝生広場では、グルメ大会、なんでも市、ラジオ体操、絵画展などが催されるそうです。

視察を終えるにあたり、同じ委員として参加した、さがらとしこ区議とともに記念撮影。

 

 

こうして1日目の視察を終え、名鉄線で名古屋へ移動。駅前のビジネスホテルで翌日に備えることにしました。

第2日目 津島市

2日目の視察は、津島市の介護ボランティア事業についてです。朝8時半にホテルを出発し、名古屋から名鉄で約30分で津島駅に。市の職員のみなさんが迎えにこられ、車で津島市役所まで送迎していただきました。

市役所5階の会議室から見た津島市の様子。のどかな街並みに、遠くには山々も望める落ち着いた風景です。

 

 

あいさつが終わると、さっそく介護ボランティア事業について、担当者の方から説明していただきました。概要はおおよそ、以下の通りです。

  • この制度は、地域のボランティア活動に参加した65歳以上の高齢者に対し、実績に応じて換金可能なポイントを与え、実質的に介護保険料を軽減するものです。
  • 高齢者がボランティア活動を通じて地域貢献することにより、参加した高齢者自身の介護予防を促進しようという制度設計で、介護保険の介護予防事業として実施されています。
  • 2010年度の実績では、市内65歳以上人口の約1%となる156人がボランティア登録をおこない、受け入れをおこなっている23の施設でボランティア活動をおこないました。登録者の平均年齢は71歳、最高齢は86歳とのことです。
  • ボランティアの登録とあっせんは社会福祉協議会を通じておこなわれ、登録者には「スタンプ帳」が発行されます。ボランティア活動を30分おこなうと1スタンプが押印され、1日の上限は4スタンプまでとなっています。
  • スタンプ10個から19個までで500ポイント(=500円)が付与されます。同様に、20個から29個までで1000ポイント、30個から39個までが1500ポイントとなります。100回以上は5000ポイント(=5000円)となり、これが年間の上限です。たまったポイントについては、現金ではなく、同額の地域振興券として換金ができます。
  • ボランティアを受け入れている施設は、主に特別養護老人ホームなどの介護施設や病院などです。グループホームでの大正琴の演奏や、配色の宅配などのボランティアなど、さまざまな活動が用意されています。
  • 2008年度から実施し一定の成果があがっているが、今後は新たなボランティア登録者をいかに掘り起こせるかが課題だと考えているとのことです。

 

これが実際のスタンプ帳と、換金される地域振興券です。

 

お話を受けて、委員や理事者からさまざまな質問があり、ていねいな答えをいただきました。

この後、対馬市議会の議場を見学し、時間にも余裕があるということで、津島神社にご案内いただくことになりました。車に乗って10分ほどで到着しました。

 

 

津島市はもともと津島神社の門前町として栄えたところで、祭礼として500年以上も続いている尾張津島天王祭が有名とのこと。織田信長もこのお祭りを見物したと伝えられています。

津島神社は1460年以上もの歴史を誇り、古くは「牛頭(ごず)天王社」とも呼ばれていた名所。桃山式の建築美を誇る楼門は、豊臣秀吉の寄進とのことです。

晴れ渡る空の下、由緒のある神社を見学し、視察をしめくくりました。2日間にわたる視察の成果は、今後の北区政にも生かしてゆきたいと思います。

2011年10月28日(金)

こんな近くに穴場観光スポット! 谷中お散歩ツアー

日本共産党志茂・赤羽後援会がよびかけたお散歩ツアーに参加しました。近場の穴場観光スポットをみつけ、ガイドつきで見学しようというこの企画は、今回で2回目。最初の浅草・スカイツリーの回が好評だったので、今回は台東区の谷中と上野動物園に行ってみようということになりました。

 

 

JR赤羽駅に集合し、目的地の日暮里駅までは京浜東北線で駅6つ、わずか15分足らずで到着しました。20人ほどの参加者を2組に分け、2人の現地ガイドさんの後について出発しました。

駅を出て、線路沿いの細道を進むと、前方にスカイツリーが見えました。東京の新名所を、このあたりからも楽しむことができます。

 

 

「坂のあるまち谷中」とはガイドブックの解説ですが、さっそく紅葉坂というゆるやかな坂を登ると、天王寺の前に出ました。

ガイドさんから寺にまつわる説明をうけ、さっそく境内へ。ご本尊は毘沙門天(びしゃもんてん)ですが、四天王としては多聞天にあたるそうです。四天王から離れて1体で祀られると、多聞天が毘沙門天となるとのことでした。

 

 

さらに境内には大仏様も。1690(元禄3)年に創られたというこの像は身長4.8メートル、天王寺大仏として知られているそうです。どっしりとした構え、穏やかな表情で、どことなく鎌倉の大仏様をほうふつとさせます。

 

 

天王寺の外には谷中霊園が広がっています。もともとは天王寺の墓地だったそうですが、今はお寺の墓地と谷中霊園とが区別されており、番地を示す標識がたっている場所が谷中霊園とのこと。桜並木にそって、しばらく霊園の中を進むと、五重塔跡に着きました。

 

 

この近くに実家のあった作家、幸田露伴の『五重塔』のモデルとなった場所です。現在は焼失して、柵で囲まれた敷地に礎石だけが残されていますが、高さが約34メートル、今ならマンション11階の高さだったということで、1644(天保元)年に建立された当時としてはまさに超高層建築物だったと思います。

 

 

この塔が焼失したのは1957年の7月、不倫を清算するための「駆け落ち放火」が原因でした。当時は小学生だったというガイドさんも、その時の騒動は記憶に残っていると話していました。

柵には炎上する五重塔の写真がはってありました。どこかの映画で見たような燃え上がり方です。貴重な文化財がこんな形で… 残念です。

 

 

しばし谷中霊園を歩いて回り、ひときわ大きな壁に囲まれた敷地に到着。そこが十五代将軍、徳川慶喜のお墓でした。言わずと知れた江戸幕府最後の将軍で、NHK大河ドラマの主人公にもなりました。

敷地の中には入れませんが、格子の間からお墓を見ることができます。十五代の将軍の中で、70歳を越えて生きたのは初代の家康と慶喜だけで、慶喜が亡くなったのは大正の時代でした。ガイドさんにこのことを教えてもらい、歴史上の人物と思っていた慶喜が、うんと身近に感じられました。

 

 

霊園を後にし、ちょっと広い通りを地下鉄の千駄木方面に歩き出しました。一見、普通の通りですが、道路の左右には大小のお寺が並んでおり、歴史を感じさせる風情。しばらく行くと、次の訪問地、全生庵に到着しました。

この建物は、山岡鉄舟が幕末維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために建立したもので、鉄舟自身の墓もここにあります。

 

 

中に入ると、目に入ってきたのが金色に輝く観音像。境内の墓地の中にすくっと佇む姿に、一同足がすくみ、思わず見上げてしまいました。ガイドさんから特に説明はなかったのですが、後で調べてみると建立は1991年と比較的新しいものであることが判明。どうりで全生庵の公式ホームページにも掲載されていないわけですね。

 

 

ところが、何と! その後調べを進めていくうちに、この観音像の作者が、あの北村西望氏であることがわかったのです。北村西望といえば、長崎の原爆像の作者として知られ、北区にもゆかりの深い方。こんなところにも作品を残していたのかと、驚いてしまいました。

 

 

こちらが山岡鉄舟のお墓。その他、落語家、初代三遊亭圓朝のお墓もありました。

次に向かったのが、大円寺。ここには、江戸の三美人の一人といわれた笠森お仙の碑があるとのこと。笠森お仙というのは、谷中の笠森稲荷の前にあった水茶屋の看板娘で、当時の浮世絵師・鈴木春信が錦絵にしたことで、江戸中の評判になった人物。狂歌師・太田蜀山人は「一たびみれば人の足を駐(とど)む、再び見れば人腰を抜かす」と評したそうですが、どんな美女だったか興味をそそられるところです。

 

 

お寺の本堂正面には大きな屋根のついた向拝が2つ、左右対称に並んでいます。こうした建築物は珍しいのではないでしょうか。木彫りの龍が見事でした。

 

 

ツアーは、大通りから千駄木駅の手前を右に曲がり、よみせ通りへ。谷中銀座商店街の入口まで来たところで昼食休憩となりました。このあと一行は、コミュニティバスの「めぐりん」で上野動物園に向かう予定ですが、私は午後の予定があるためここで離脱させていただくことになりました。

ここまで来て、ふと思い立ったことがありました。さかのぼること29年前、私が初めて上京した時に、最初に住んでいた場所がこの近くなのです。よみせ通りを抜け、不忍通り方面に向かう角あたりに、そのアパートはありました。当時、家賃が月1万8000円、6畳1間のトイレ共同の物件でした。その頃、すでに古い木造アパートだったので、おそらく今はもう残っていないでしょう。と思いつつ、足はそちらの方向を向いていました。

近くまで来ると、思った通りまわりはすでに高層マンションに様変わりです。まさかあのアパートだけが残っているはずは…と奥へすすむと、何と、ありました! 当時のままの建物が。外観も、階段も、廊下も、靴箱も、本当にそのまんまです。まるで、30年の時の流れの中で、この空間だけがタイムスリップしたような感覚に襲われました。

 

 

思わぬ副産物もあった今回のお散歩ツアー、本当に楽しかったです。台東区の観光ガイドさん、ありがとうございました。次回の企画にも、ぜひ参加したいと思います。

2011年10月23日(日)

今日最後の参加行事は消防団合同点検

今日は朝から忙しい1日でした。明治公園からJR、東京メトロと乗り継いで王子に戻り、中央公園野球場で開催された北区消防団合同点検の会場にたどり着いたのは、ちょうど消防団員の整列が終わろうとしていた時間でした。

着席するや否や「部隊検閲」の号令がかかり、すぐに整然と並んだ消防隊員の間を歩いて点検をおこないました。

その後、消防操練、災害救助活動、応急救護活動が披露されました。大震災で崩れた家屋から心肺停止の被災者を助け出し、AEDを使って蘇生を試みるという活動も、日ごろの訓練によって手際よくおこなわれていました。

 

 

そして、最後はお決まりの一斉放水。秋とは名ばかりのかんかん照りの下で見学していたのですが、区民消火隊や消防団のポンプで炎上した家屋にいっせいに放水した後は、心なしかひんやりとした空気が漂ってきました。

 

 

訓練の後は講評、そして来賓のあいさつ。区議会議員も一人ひとり紹介をうけ、私も感謝の気持ちをこめて「ありがとうございました」と一礼しました。消防団のみなさん、本当にご苦労様でした。

2011年10月23日(日)

全国青年大集会に4800人、たたかう青年の輪は広がる

今年は7回目を迎えた全国青年大集会。私は、区議に初当選した年から連続4回目の参加となりました。

民商まつりの会場から急いで明治公園にかけつけると、すでに分科会が始まっていました。今年は介護保険制度の改定の年であり、私も北区の介護保険運営協議会の委員となっているので、「利用者に合った介護がしたい!」の分科会場に割り込みました。

すでに基調報告が終わり、参加者の発言がおこなわれていました。あるグループホームの職員の男性は「夜勤では1人の宿直と1人の夜勤パートの2人がつくが、仕事がいっしょなのに給与が違うのはおかしいと思う。基本給は12万円と安く、手当がいろいろついても総額で20万円にしかならない。これではやっていけない」と現場での実態を報告していました。

 

 

アドバイザーの久保木弁護士は、「介護の仕事は崇高だが、休みも睡眠もとれずに働けば疲れもたまり、いずれ限界に達する。ボロボロになって弁護士に相談に来る人もいるが、そうなる前に組合に入り、団結してたたかって今の職場の実態を変えていってほしい」と参加者を励ましました。

昼食休憩に入って、北区から参加した青年たちと合流。おしゃべりをしながら、午後1時のメイン集会開会を待ちました。

12時半頃から中央舞台でオープニングアクトが始まり、レゲエグループ・AZUMAがノリノリのダンスチューンを披露。東日本大震災を題材に書き下ろしたという“One Big Family ―立ち向かうすべての人々へ―”は、会場の参加者から大きな拍手と声援を受けていました。

 

 

本来であれば、実態の告発とたたかいの交流、日本共産党の志位和夫委員長の連帯あいさつを聞きたいところでしたが、これまた次の予定のため、ながい議員とともにやむなく会場を後にせざるを得ませんでした。

年齢的にも、ギャップを感じないわけではありませんが、青年の熱いたたかいと連帯にはいつも励まされます。この気持ちを北区の政治にもぶつけ、若者が未来に希望をもって生きられる社会の実現をめざしてゆきたいと思います。

2011年10月23日(日)

今年も盛大に北区民商まつり

前日からの雨もあがり、恒例の民商まつりが飛鳥山公園でおこなわました。

数年前から北区の後援もいただくようになり、ますます盛大なお祭りになっています。ちょっと早目に会場に到着し、午前10時の開場を迎えて、日本共産党の、そねはじめ前都議と区議団が、花川区長とともに来賓として紹介をうけました。

 

 

子どもたちの太鼓の音頭とともに、まつりがスタート。区内各地の民商の支部が模擬店のテントを並べ、腕を競って商品を販売するなか、私は、日ごろお世話になっている赤羽一番街「かぐら」のマスターが出店しているお店で、モツ煮込み、フランクフルト、味噌こんにゃくを買い込んでパクつきました。

一つひとつのテントを回り、あいさつしながらぐるっと公園内を一周。いつもはカイロプラクティックで体をほぐしてもらうのですが、今回は後の予定が控えているため、やむなく断念。

 

 

曇り空から晴れ間がのぞき、いよいよこれから盛り上がるという時間帯でしたが、会場を後にし、同僚の、ながいともこ議員ともに全国青年大集会が開かれる明治公園へと向かいました。

2011年10月22日(土)

3つの障がい者施設のお祭りを見学

あいにくの雨となりましたが、赤羽西にある3つの障がい者施設が同時にお祭りを開催するということで、でかけてきました。

最初に訪れたのは、赤羽西福祉工房の「赤西工房まつり」です。ゲートには立派な手作りの案内が出ていました。

 

 

この施設では、ゲームを楽しみながらスタンプラリーができるため、たくさんの子どもたちがやってきていました。綿菓子機のモーターを利用した回転式玉入れや、パチンコとボーリングを合体させた大型ピンボールなど、毎回ユニークなゲームが登場するので、見学する方も楽しみです。

次に、若葉福祉園の「わかば祭」に向かいました。2階ホールのアトラクション会場では、ちょうどマジックショーがおこなわれていました。タネがばればれの手品でしたが、観客も思いっきり拍手でこたえていました。

 

 

最後に、赤羽西福祉作業所の「赤西祭」です。ここでは、利用者さんたちが毎日おこなっている作業の実演をしていました。鉛筆の箱詰め、箸セット入れや箱折り、眼帯の紐通しなど、手際よく進められる作業に見入っていると、職員の方がいろいろ解説をしてくれました。お話によると、みなさんが頑張って仕事をするので、昨年と比べ企業からの依頼も一段と増えてきたとのこと。作業所での仕事だけでなく、企業の工場へ作業員を派遣することもあるそうです。

 

 

ゆく先々で、障がい者のみなさんが作ったキーホルダーやアクリルたわし、焼きそば、パン、ケーキ、おにぎりなどを買い込んで帰途につきました。来年は晴れるといいですね。

2011年10月21日(金)

あゆみ会40周年・社会福祉法人あゆみ10周年記念式典

北区の障害者運動を長年リードしてこられた、あゆみ会が40周年、社会福祉法人あゆみ会が10周年を迎え、記念式典にお招きいただきました。

あゆみ会には予算要望の懇談で何度もおじゃまし、障害者のみなさんの作業風景なども見学させていただきました。一人ひとりの利用者さんが、生きいきと手を動かしている様子を見て、ここがみなさんの「居場所」なんだなと実感しました。

 

 

式典では、社会福祉法人の松山理事長(写真)と、あゆみ会の弦間会長があいさつし、来賓からの祝辞の後、一人ひとりの議員が紹介を受けました。

乾杯、歓談に続くアトラクションでは、利用者のみなさんが「2~3ヵ月かけて特訓した」という歌と演奏を披露してくれました。曲目は「翼をください」「風になりたい」「世界に一つだけの花」。みんなの手拍子、合唱で応援しました。

今後とも、障害者のみなさんのよりどころとなる施設の運営に、ご努力いただきたいと思います。

2011年10月15日(土)

環境、くらし、まちづくり―区民の願いにこたえる北区へ

区議会定例会ごとにおこなっている都区政報告のつどいを、赤羽会館で開きました。天気も少し不安定な中でしたが、31人のみなさんが参加してくれました。

 

 

今回は少し趣向を凝らして、いくつかの数字をスライドに映し、第3回定例会で焦点になった問題について、参加者のみなさんにもいっしょに考えてもらうことにしました。

まずはこの数字です。なんだかわかりますか?

 

 

正解は、「北区の放射線対策基準は0.25マイクロシーベルト」です。

福島第一原発事故で広がる放射線の影響に対し、住民のみなさんの運動と私たちの議会論戦で、ついに北区に対策基準を発表させました。すでに、たきさん幼稚園では0.38マイクロシーベルト、滝野川第三小学校では1.01マイクロシーベルトが検出され、すみやかな除染対策がとられました。

引き続き、ホットスポットの発見と対策、食品の安全対策にも力を入れるようはたらきかけてゆきます。

続いて、この数字です。

 

 

正解は、「原子力委員会が発表した世論調査で『原発は廃止に』が98%」です。

9月19日に明治公園でおこなわれた「さようなら原発集会」に6万人が集まるなど、原発ゼロをめざす声と運動が大きく広がっています。日本共産党はこのたび、「大震災・原発災害にあたっての提言(第3次)」を発表し、賠償・除染は原発“埋蔵金”を活用しておこなうよう野田首相に申し入れをしました。

電力会社は使用済み核燃料の再処理などを名目に、4.8兆円もの“埋蔵金”をためこんでいます。今後これを19兆円まで積み立ようという計画はとんでもありません。また、原子炉メーカー、ゼネコン、銀行など原発建設で巨額の利益を得てきた大企業がためこんだ内部留保は約80兆円にもなります。これらを「原発賠償・除染・廃炉基金」として活用する提案に、野田首相も検討を約束しました。

さて、次も98%ですが、これは何の割合でしょうか。

 

 

正解は「30年以内に首都圏直下型地震が起きる確率が98%」です。

東日本大震災をふまえて、北区では毎月1回「災害対策のあり方検討会」を公開で開いています。毎回、学識経験者の委員が講演をおこない、大変勉強になります。問題であげた数字は、東京大学地震研究所の大木聖子先生がしめした最新の研究結果です。

一方で、「目の前に危険が迫っていても、なかなか防災対策をとろうとしないのが人間というもの」というのが、同じ東大の加藤孝明先生。さまざまな意見をたたかわせながら、一番よい防災対策は何かを考えてゆきたいと思います。

次は、99%です。こちらは何の割合でしょう。

 

 

正解は、「アメリカのウォール街デモで1%の富裕層にたち向かう99%の国民」です。

アメリカ社会の貧困と格差は深刻です。ニューヨークの金融街、ウォール街から始まったデモは、いま全米の都市に広がりはじめています。「構造改革」で貧困が広がる日本にとっても「対岸の火事」ではありません。

野田内閣は、民主党が当初かかげた公約をかなぐり捨て、原発政策でも普天間基地問題でも、そして風雲急を告げるTPP問題でも、アメリカ追随の姿勢をしめしています。今こそ、アメリカいいなりの政治から決別すべき時ではないでしょうか。

次の数字です。これは一体…?

 

 

正解は「2010年度決算における北区の積立金残高が450億円」です。

北区は、「財政が厳しい」ことを理由に、区民の切実な願いにも正面からこたえようとしません。高齢者の紙おむつ支給を重度(要介護4・5)に限定している区は23区で3区だけです。木造住宅の耐震改修助成の上限が50万円にとどまっているのも3区だけ。20区が75万円以上で、新宿は300万です。

北区の実質収支はずっと黒字で、2010年も37億円の黒字となりました。財源があるのに、区民にはがまんを押しつけるのは本末転倒です。しかも、毎年の黒字の半分は積立金にまわし、残高は過去最高の450億円となりました。

日本共産党北区議員団は、こうした財政のあり方を批判し、2010年度決算の認定に反対しました。

さて次は、ちょっと大きくなりますが、この数字です。

 

 

正解は「北区の65歳以上の高齢者人口は24.6%で、23区中トップの78,500人」です。

今年度、北区は「長生きするなら北区が一番」のスローガンを掲げ、ようやく高齢者対策に本腰を入れ始めました。8月から全高齢者実態把握調査をはじめ、アンケートの回収を始めました。75%の回収をめざすとしていますが、現在までに60%を超える回答が返ってきています。

この調査は年内に集計し、来年度からの本格的な高齢者施策に生かしてゆきます。

次の数字は55。松井秀樹選手の背番号ではありませんよ。

 

 

正解は「赤羽駅構内に9月23日全面開業した『ecute赤羽』の店舗数が55店」です。

エキナカに55店舗もの商店街をつくる計画に対して、利用者の安全確保と地元商店街との共存共栄という問題をずっと提起してきました。残念ながらJR東日本からは、明確な回答がないまま、全面開業となってしまいました。

私は、第3回定例会の個人質問で、安全性と地元経済への影響について、事後調査をおこなうべきだと求めました。

次は、年号のようですが…。

 

 

正解は「赤羽公園が開園したのが1968年」です。

開園からすでに43年の時が経過し、老朽化も激しくなっています。地元のみなさんのご協力をいただいて公園の実態調査をおこない、改善箇所については区長に要望書を提出しました。

また、「全面撤去」をめぐって議論が続いていた遊具問題ですが、「大空の門」はモニュメントとして残し、「幅広滑り台」は改修、「キリンの滑り台」は新設して復活という整備案がまとまりました。誰もが安心して遊べ、憩える公園にするために、さらに改善を求めてゆきます。

最後の数字は、この2つです。わかりますか。

 

 

正解は「十条駅西口再開発ビルの高さが146メートル37階建て」です。

これだけの高さの超高層ビルは、低層の木造住宅が並ぶ下町らしい十条の街には似合いません。今後、地元のみなさんへの説明や議会での議論も続いてゆきます。計画の見直しも、率直に求めてゆきたいと思います。

私の報告に続き、そねはじめ前都議が、北区の放射線対策や、日本共産党としてとりくんでいる震災ボランティアの活動について報告しました。

参加者のみなさんからも、質問や感想を寄せていただき、最後に私からお礼のあいさつをのべて報告会が終了しました。こうした会合を通じて、少しでも区政の問題に関心をもっていただければ幸いです。

2011年10月14日(金)

議員定数は本当に減らすべきか

北区議会のあり方について議論する議会改革検討会の第3回目が開かれました。

本日の検討課題は、議員定数、費用弁償、政務調査費についてでした。なかでも、議員定数について各会派代表の間で活発な討論となりました。

北区議会の現在の定数は44名です。このたび自治法の改正により議員定数の法定上限が撤廃されたため、あらためてこの定数が妥当かどうかが問われています。

 

 

公明、民主あすか区民ク、みんなは定数削減を主張

討議では、公明党が「北区の財政状況から今までと同じようにはできないので、議員定数は削減すべき」と発言。民主あすか区民クラブは「春の選挙では多くの候補者が選挙で堂々と定数削減を公約に掲げて当選したので、削減すべき」、みんなの党は「いたずらに大幅削減すべきではないが、定数は削減すべき」と主張しました。

自民は意見を集約中

一方、自民党は「定数の考え方はいろいろある。何を根拠に定数を決めるかを明確にすべき」とのべ、「性格はまったく違うが民間企業の顧客管理の考え方からすれば、44名はそれなりに理由のある数ではないか」と表明しました。他会派から「自民党は4~6人の削減が妥当と主張していたのでは」と問われると、「会派としてさまざまな意見があり、現在は集約中」と答えました。

新社会は削減に反対

新社会党は「44人が多いとは思わない。議員は区民と行政の橋渡し役であり、多ければ多いほどよい。区民からの『議員を減らせ』という声は、議場で居眠りするなど役に立たない議員がいるから。しっかり活動していれば、減らせという声はなくなる」と主張しました。

日本共産党の立場―安易な削減に反対、議員の役割にふさわしい定数を

日本共産党の八巻直人委員は「安易な定数削減には反対。議員は区政の監視役であり、その役割を果たすのにふさわしい定数を定めるべきだ。議会が身を削れというなら、定数を減らすのではなく、議員報酬の削減にこそふみきるべきではないか」とのべました。

さらに、私は「先に『削減ありき』ではなく、あるべき定数はいくつなのかこそしっかり議論すべき」と前置きした上で、「財政が厳しいから削減というが、北区の実質収支は黒字、積立金は過去最高の450億円となっており、単純に『厳しい』とはいえない。職員も議員も経費削減を理由に減らせば減らすだけよいとなったら、それだけ区民サービスも議会のチェック機能も低下することになる。必要な仕事をするための人材は確保すべきだ」とのべました。また、多くの議員が定数削減を公約に掲げたという主張については「私たちの会派は議員定数削減反対を訴えて9人が当選した。民意はさまざまだ」と反論しました。

区民のためにしっかり働く議員こそ議会には必要

議員定数問題は、次回の検討会でさらに議論を重ねてゆくことになりました。私は、今回の議論を通じて「議員は減らせば減らすほどよい」「『行財政改革』をいうならまず議員自ら身を削れ」という、マスコミでもよく耳にする主張は、区の誤った「財政は厳しい」論を是認する点でも、議員の果たす役割を軽視する点でも、大変危険な議論だと感じました。

私たち日本共産党の議員には、毎日のように暮らしの相談が寄せられます。単純計算では、今の定数でさえ議員1人あたり約7600人の区民の声を代表しなければなりません。議員に相談したおかげで自殺しなくてすんだ、という人もいるのです。この命のパイプともいえる議員の役割を単なるコストと考えるのは、あまりにも皮相な議論ではないでしょうか。

同時に、区民のみなさんから出てくる「議員を減らせ」という声は、いまの議員が区民の期待にこたえきれていないという現実を反映したものともいえます。私たちも、もっともっと区民のみなさんの声を吸い上げ、議会で起きていることを伝え、要求の実現のために働かなければなりません。区民のためにしっかり働く議員こそ議会には必要なのです。

そのことを肝に銘じ、日々の議員活動に真剣に向き合ってゆきたいと思います。

2011年10月12日(水)

今日はジョン・デンバーの命日でした

早いもので、アメリカを代表するシンガーソングライター、ジョン・デンバーが自ら操縦する飛行機の事故で亡くなって14年が経ちました。

1997年のこの日、朝刊で悲報を知って愕然としたことを思い出します。当時、ようやくインターネットが普及しはじめ、今まで手に入らなかったジョンのCDやビデオなどの収集を始めていた頃のことでした。「カントリーロード、もう聞けない」と報道したスポーツ紙は、いまでも持っています。

ジョン・デンバーを知るきっかけになったのが、中学生の頃、自宅にあった1枚のレコードでした。「ジョン・デンバー ゴールドデラックス」というのがそれ。

 

 

このレコードで「故郷へ帰りたい(カントリーロード)」や「太陽を背にうけて」などの曲を初めて聞きました。そのうち、「故郷へ帰りたい」が毎週流れることを知り、NHKテレビの「英語会話」を見るようになりました。私が志望大学を決めたきっかけにもなったのが、ジョン・デンバーでした。

ちなみに、私がかけている丸メガネは、ジョン・レノンならぬ、ジョン・デンバーへのオマージュのつもりです。

ジョンが亡くなってすぐ、インターネットを通じて、全国のファンと交流する機会を得ました。なかでも、日本で一番ジョン・デンバーのことに詳しい(と思われる)田中タケルさんのサイト、IN A FAR AWAY LAND The Japanese JOHN DENVER Page を通じて、数多くのファンの方々と知り合うことができ、ギターを片手に各地で開かれたオフ会にも参加しました。

享年53歳、今から思うと、本当に若すぎる死だったと思います。今後も、平和と自然への愛に満ちたジョン・デンバーの歌を聴き続けてゆきたいと思います。

2011年10月12日(水)

ドヴォルザーク交響曲第8番を聴いてきました

川口市のリリアホールで開かれた日フィルの演奏会にでかけました。

実は、元教員をされていた私の大先輩から、「今回タクトを振る浮ケ谷孝夫さんは私の教え子でした」とご案内いただき、楽しみに会場へでかけたわけです。

 

 

ご覧の通り、演目は3つ。ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲は、まずまずの出だし。グリーグのピアノコンチェルトは、ソリストのヴァレンティーナ・イゴシナさんの情熱的な演奏がオケとよく響きあっていました。

圧巻はドヴォルザークのシンフォニー第8番です。ドヴォルザークといえば、第9番「新世界より」が有名ですが、この8番もなかなか聴かせどころの多い楽曲です。第1楽章、第2楽章と印象的な主題をフルートの旋律が奏で、それはまるで大自然の中で鳴く小鳥のさえずりのようにも聞こえます。清流の流れのような第3楽章をはさんで、怒涛のような第4楽章へ。さまざまな音色がまさに一つに合流する最終盤は、オーケストラの醍醐味を十分に味あわせてくれました。

大満足の演奏の余韻を残したまま会場を後にしました。それにしても、この演奏会が川口市・鳩ヶ谷市合併記念コンサートだったとは、一緒に招待された、そねはじめ前都議に指摘されるまで知りませんでした。

2011年10月11日(火)

放射線内部被ばくから子どもをどう守るか

日本共産党北区議員団として企画している放射線問題での連続学習講演会。6月に野口邦和先生を招いておこなった学習会に続き、今回は内部被ばく問題に詳しい岐阜環境医学研究所所長の松井英介先生による「見えない恐怖 放射線内部被ばくから子どもたちをどう守るか」の講演です。

会場の北とぴあ・ペガサスホールには、放射線の影響を心配する子ども連れの親子など80人がつめかけました。

 

 

山崎たい子区議からの主催者あいさつの後、演壇に立った松井先生は、スライドを使いながら内部被ばくの問題についてわかりやすく説明をされました。

なぜ内部被ばくは恐ろしいのか。松井先生は、放射線の影響が距離の二乗に反比例することを紹介し、「たとえ低線量であっても体内に入った放射性物質は、きわめて近距離から人体に影響を及ぼす。放射線によって破壊されたDNAは、修復が難しくなったり異常再結合を発生させる」とのべました。

さらに、こうした影響について、広島・長崎の原爆や、チェルノブイリ事故が起きたベラルーシなどの記録をもとに検証、裏付けをおこないました。

参加者から、現在の福島第一原発の状況について問われた松井先生は、「政府からのデータが隠されていて、実態はよくわからない。真実が国民に公表されないのは、アメリカからの圧力があるからではないか。アメリカの利益優先で『原発を止めるな』というのはもってのほか。子どもたちの命を守るという点で団結し、こうした圧力を打ち破りましょう」とのべました。

次回の講演会は、11月23日(祝)午後1時30分より赤羽会館大ホール、講師は矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授です。ぜひご参加下さい。

2011年10月8日(土)

50年間、節を曲げずに生きぬくすばらしさ

日本共産党員として30年、50年を生き、活動した方々を表彰する北区の「50年・永年党員のつどい」が北地区委員会の事務所で開かれました。

今年、50年の表彰を受けられた党員のみなさんは、60年の安保闘争のさなかに入党を決意された方で、以来、半世紀にわたって党員として活動し続けてこられました。30年の永年党員のみなさんが入党したのは、1980年の社公合意を契機に日本全体が右傾化していゆく時期でした。

時代は違えど、職場で、地域で、学園で、日本社会の進歩と発展のために奮闘されてこられたみなさんの、ささやかではありますが労をねぎらう集いとなりました。

 

 

表彰に続き、そね前都議のあいさつ、乾杯、そして永年党員・50年党員のみなさんからのあいさつと進みました。さすがに、30年、50年の活動を1分で語るのは無理があり、予定の時間を大幅に超過してしまいました。

木元良八前区議のギターと、長らく常勤者を勤めた伊藤さんのハーモニカで楽しく合唱をおこなった後、私が地区副委員長として閉会のあいさつをさせていただきました。

 

 

私は、「長く活動してきたことはもとより、30年、50年という期間、節を曲げずに生きぬいたということに深く敬意を表したい」とのべました。どの時代でも、日本共産党員として生きることは、勇気と根気のいるものです。政党の離合集散が繰り返され、「二大政党」も機能しなくなっている今日、確固たる日本共産党の立場は、政治的にもますます重要になっていると感じます。「今後とも、後に続く党員の模範となって元気に活動を続けて下さい」とあいさつを結びました。

かくいう私も、来年は永年党員になります。

2011年10月7日(金)

区議会最終本会議で2010年度決算に反対討論

9月12日から開かれていた北区議会第3回定例会が最終本会議を迎えました。

7日間にわたって審議してきた2010年度決算の認定について採決がおこなわれ、私は日本共産党北区議員団を代表して、一般会計と国保会計、後期高齢者医療会計について反対討論に立ちました。

 

 

反対理由の第1は、順調に基金を積み増しながら、「財政が厳しい」と、必要な区民サービスの拡充に消極的な財政運営のあり方です。

決算審議の中でもことさら財政の厳しさを強調した北区。ところが実際は実質収支はずっと黒字続き。昨年度は37億円もの余剰金が生まれました。さらに、主要5基金の積立金は、過去最高の450億円に達しています。財源がありながら、区民にはがまんを強いるのはまちがっているのではないでしょうか。

反対理由の第2は、破たんした構造改革路線にしがみつき、「経営改革プラン」を至上命題として、外部化路線を推し進めようしている姿勢です。

公の施設を民間にまかせる指定管理者制度を導入した施設は116を数えます。これまでも職員の大量退職やコンプライアンス欠如など民間まかせの矛盾が露呈しているのに、区は真剣な総括がないまま、さらに外部化を進めようとしているのです。

いま、指定管理者制度の矛盾が全国に広がり、片山前総務大臣は年頭の会見で「コストカットを目的として、結果として官製ワーキングプアというものを随分生んでしまっている」とのべ、政府が推進してきた「集中改革プラン」(北区では「経営改革プラン」)の解除を指示しました。

残念ながら北区には、こうした反省も自覚もないようです。決算は賛成多数で認定されましたが、今後とも区民の目線でしっかり税金の使い道をチェックしてゆきたいと思います。

 

※反対討論の全文はこちらからどうぞ。

2011年10月4日(火)

要援護者をどう守る? 第3回災害対策のあり方検討会

昨日(3日)夜、第3回の「東日本大震災を踏まえた災害対策のあり方検討会」が北とぴあで開かれ、傍聴しました。夕方まで決算特別委員会で熱い議論をたたかわせた後でしたが、ちょっと疲れた身体を奮い立たせて会場へ向かいました。

今回のミニ講演は、東大の加藤孝明准教授

例によって、冒頭には学識経験者の委員によるミニ講演がありました。今回は、東京大学准教授の加藤孝明先生による「災害に強いまちをつくるには」というお話です。先生は、都市計画やまちづくりが専門で、災害シミュレーションの研究をされています。

先生は防災対策の前提として、「都市の人間にとっては、安全は与えられたものとして前提になっている」「危険が近づいているとわかっていても防災対策をすすめようという気にならないのが人間」と解説。「災害が起きたら家が全半壊する」と認識している人の4割が「家が全半壊しても仕方がない」と思っている、というアンケート調査や、地域で防災訓練をやっても多くの住民は「参加するかどうかすら考えない」など、具体例をあげてこの考えを説明。「私たちは防災対策という場合、こういう人たちを相手にしなければならないのです」という発言に、なるほどと納得しました。

また、防災対策の基本は「自助・共助・公助」とされているが、実際のところはお互いをあてにしながら、対策を譲り合っているだけだと指摘。災害に対して、自助、共助、公助のできることは何かをそれぞれの立場で明確にし、役割を分担することが重要だと提起しました。

さらに、阪神淡路大震災や東日本大震災など、あまりに災害のイメージが鮮烈だと残像が強く残るので、東京で地震が起きた時にはどういう状況になるのかを想像力をはたらかせて考えることが大事と指摘。密集住宅街で火事が発生した場合に、どれだけの規模とスピードでまわりに火が燃え移るかのシミュレーションもスライドで紹介しました。

こんな感じで講演がおこなわれましたが、毎回、大変勉強になります。

大木先生のビックリ発言

と、ここで東大助教の大木聖子先生が補足発言。「東日本大震災後、地震の頻度が急激にあがっていることは前回の講演でのべた通りですが、最新の調査結果で、この30年のうちに首都圏を襲う大地震が起きる可能性が98%とでました」の報告に、会場内がちょっとざわめきました。

まさに「自由な」フリーディスカッション

次に、本日の議題「災害時要援護者支援のあり方について」をテーマにフリーディスカッションがおこなわれました。が、まさしく自由な討論ということで、いまひとつ議論がかみあわなかったような…。そこで、私なりに大事だと受け止めた発言をランダムに並べてみると、

  • 要援護者の対象が「65歳以上の高齢者」となっているが、そもそもいまの65歳は、まだまだ元気な人が多い。支援が必要な人というなら、もっと対象年齢をあげてもよいのではないか。
  • 区としては、要援護者の名簿をつくり地域振興室ごとで管理している。必要なら自主防衛組織にも提示している。いざという時は、名簿を活用して要援護者の安否確認をお願いしたい
  • (町会自治会に入っている区民が5割ほどではないかとの報告をうけ)町会でもつかめないというなら、現在区がおこなっている全高齢者実態把握調査のアンケートで、要援護者の登録をすすめたらどうか。
  • 町会に要援護者のふるい分けを依頼されても対応できない。名簿を見ただけではせいぜい年齢がわかるくらい。病名や障害者だと書かれていても、どの程度支援が必要かは判断できない。

う~ん、やっぱり加藤先生のいうように、自助と共助と公助が譲り合っている状況か。しかし、こうした議論を通じて、何が問題なのか、何から手をつければよいのかが見えてくるような気がします。

最後に、加藤先生から「区は要援護者名簿をつくっているというが、名簿登録することだけが目的になってしまっているような感がある。名簿をつくる目的を、いま一度はっきりさせる必要があるのでは。要援護者の方に対しては、支援をしてもらいたいかだけでなく、自分で自分の身を守るということをもっと啓発していくことが大事」と、まとめのような発言がありました。

次回の検討会は、ぜひ傍聴を

次回、第4回の検討会は、10月25日(火)午前10時から北区防災センターで開かれます。私は委員会の視察と重なり、残念ながら傍聴できませんが、たくさんの方が防災に関心をもち、真剣な議論に耳を傾けていただくよう願っています。

2011年10月1日(土)

北区民まつりで赤羽公園は大賑わい

毎年10月最初の土日は、ふるさと北区区民まつりの日です。王子、赤羽、滝野川の3会場を中心に、たくさんの区民のみなさんがまつりを楽しみます。

初日となった本日、さっそく赤羽公園の会場へ。町会自治会や協賛団体のテントが所狭しと並び、親子連れなど大勢の人たちが買い物にいそしんでいました。

 

 

会場入り口では、来場する子どもたちに「きたちゃんを探そう」というイベントへの参加をよびかけていました。「きたちゃん」というのは、北区区民まつりのマスコットのキツネです。会場内できたちゃんを見つけてスタンプをもらうと、何か特典があるとか。

そして、会場内をぐるっとまわってみると…。やっぱり子どもたちが、きたちゃんのまわりにいました。

 

 

現在北区では、2010年度の決算特別委員会が開かれています。連日、朝から夕方まで真剣な議論が続いており、残すところ月曜、火曜の2日間となりました。

毎日質問の準備に追われていますが、今日だけはゆっくりとお祭りを楽しみ、少しだけリラックスした気分になりました。