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NO.111 2014年10月号

日本製紙王子倉庫跡地開発計画で質疑
9月区議会決算特別委員会

区議会議員 宇都宮 章
 
長谷工の説明会
9月21、22日の二日間、北とぴあで行われた長谷工の説明会には跡地周辺(東十条1,2,3丁目、王子4,5丁目)にお住まいの二百数十人の方が参加し、30人を超える方から70項目近い質問が相次いで出されました。
質問の内容は解体工事に伴う騒音、振動、粉塵、アスベスト、交通の対策を始め、18階建て(60メートル)の日影、電波障害など多岐にわたりました。
王子4丁目の方からは以前の倉庫解体工事で大変な被害があったという生々しい発言が出されました。
長谷工の説明では土壌汚染は無いこと、桜並木は極力残すこと、現在未定の店舗、賃貸マンション、介護付き有料老人ホームの詳細は来年決定するとのことでした。
今後は長谷工が地域ごと、町会・自治会ごとに工事の進行に合わせて説明会を行うことを約束しました。
9月25日の決算特別委員会(4日目)では、この説明会の内容を紹介し、出された要望に応えるように区が適切に指導することを求めました。

工事中の通学路の安全対策を求める。
また、26日の同委員会(5日目)では、約一年近い解体工事(平成26年10月末〜平成27年8月末)中、特に来年4月〜6月には10トン車の出入りが月50〜90台と最大になること、またほぼ同時期に凸版印刷城北工場(東十条3丁目)の解体工事が重なることを指摘し、近隣の通学路の万全な安全対策を求めました。
重大事故が相次いだ平成24年の文部科学省通知により、すでに区内22校の通学路の合同点検が実施されていることから、この地域での再点検を求めました。

小学校など児童の受け入れ体制について
さらに、平成30年3月完成後(869戸)は近隣の新設マンション(来年夏完成114戸)と合わせると1000戸ちかくにもなり、ここに居住する児童の小学校受け入れ体制について質疑しました。
現状でも王子小、王子第一小、東十条小は区内でも児童数の多い地域の一つであるkとを指摘し、抜本的な対策を求めました。
(私の質疑、区の答弁の詳細は11月中旬、区議会のホームページで公開されます)

日本製紙王子倉庫と引込線
王子五丁目団地での説明会
9月27・30日・10月1日に行われた長谷工の説明会には多くの住民が参加。
住民からは団地内通行時にゴミのポイ捨てや自転車の放置、また高層ビルの風害、交通事故の心配などについて質問が出されました。
「浪江っ子 のびのび支援プロジェクト」のキャンプを終えて
「まだ放射線量の高い福島市に避難せざるをえなかった浪江町の子どもたちを野山で思いっきり遊ばせたい」
この思いが新婦人北支部あおぞら班から支部全体に広がり、ほくと医療生協、北区労連、北区教祖、チームラマーズと共に2013年7月に実行委員会が作られ、多くの賛同団体もできました。
資金は浪江町では会社まわりをして集めるのが普通なので驚いたのですが、自分たちも楽しめるイベントを持ち、その入場料の中から寄付していただいたのです。
8月の松平晃さんのトランペットコンサート、2014年2月の小酔楽さんと慶多さんの落語プラス浪江町の漁民、滋賀さんのお話。5月の馬高彦さんの二胡コンサートと浪江町の酪農家、馬場さんのお話。6月のチームラマーズのビン笛コンサート。7月のうたごえ喫茶「ともしび」のコンサートでは出演者の皆さまが大部分の入場料を寄付してくださったのです。その合間をぬって北区のいろいろな行事に出かけていってTシャツの販売を懸命にして、ついにキャンプにこぎつけたのです。
実行委員会とボランティアの皆さんは雨模様の中をよく働き、特に51人分の食事を作ってくださった方たちの苦労は大変なものでした。でも福島からの子どもたちと親御さんたちからは、泥だんご作りをはじめ面白い行事に十二分に楽しんだとの感想を頂きました。
また、言葉だけでなく避難者たちに寄り添ってくれる人達がこんなにも沢山いるということが解ってもらえたと思います。本当にありがとうございました。
浪江町 門馬昌子(北区在住)
浪江っ子のキャンプファイヤー
【街の色】
町名の変遷シリーズ<宇都宮区議地域>
東十条編(その一)

江戸時代の資料を調べると「十條村」と出てくる場合と、江戸時代末期には「上十條村」と「下十條村」と出てくる二通りがあります。
江戸時代末期には、実態として二つの村に分かれていました。
「十條村上組」「十條村下組」と出てくる文献もあります。
1855年(安政2年)の「永瀬家文書」には上十條村と下十條村に分かれて、家の軒数などが記載されていますので紹介します。(年貢は米に限るため野菜を売って米を買った)
(表は「北区の歴史」より)

これが正式に二つの村として成立するのは、明治時代に入ってからの資料で見ることが出来ます。

上下の境界線

図は「北区の歴史」より

「上」「下」と言うと線路を挟んで上が「上十条村」下が「下十条村」と思いがちですが、そうではなくほぼ南北に分かれています。
今の地域と比べるとかなり広い地域で、現在の地図に当てはめると南北の境目は東十条駅ホームの真ん中あたりでわかれます。
上十条村の範囲は現在の東十条3〜6丁目、十条仲原1〜4丁目、上十条3〜5丁目です。
下十条村の範囲は王子3〜5丁目、岸町2丁目、東十条1〜3丁目、中十条1〜2丁目、十条台1〜2丁目でした。

江戸時代から明治時代始め頃は、現在の京浜東北線の東側低地(東十条)はほとんど田圃で、西側台地(上十条)は畑でした。

江戸から明治へ
1873年(明治6年)維新政府は地租改革条例で、物納(米に限る)の年貢を金納に改革し、土地所有者(地主)に一連番号をつけ検地して、木製の地券を発給しました。

新たな地名
この時、下十条村の田圃(現:東十条地域)に、筏(いかだ)、下り松(現:東十条5丁目付近)、道女喜(どうめき)(現:東十条6丁目付近)、桜田(現:王子5丁目団地)、根岸(現:東十条2・3丁目)、宮田(現:東十条1・2丁目)、江頭(現:王子5丁目)の小字名が付けられました。

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