江戸時代の資料を調べると「十條村」と出てくる場合と、江戸時代末期には「上十條村」と「下十條村」と出てくる二通りがあります。
江戸時代末期には、実態として二つの村に分かれていました。
「十條村上組」「十條村下組」と出てくる文献もあります。
1855年(安政2年)の「永瀬家文書」には上十條村と下十條村に分かれて、家の軒数などが記載されていますので紹介します。(年貢は米に限るため野菜を売って米を買った)
これが正式に二つの村として成立するのは、明治時代に入ってからの資料で見ることが出来ます。
上下の境界線
「上」「下」と言うと線路を挟んで上が「上十条村」下が「下十条村」と思いがちですが、そうではなくほぼ南北に分かれています。
今の地域と比べるとかなり広い地域で、現在の地図に当てはめると南北の境目は東十条駅ホームの真ん中あたりでわかれます。
上十条村の範囲は現在の東十条3〜6丁目、十条仲原1〜4丁目、上十条3〜5丁目です。
下十条村の範囲は王子3〜5丁目、岸町2丁目、東十条1〜3丁目、中十条1〜2丁目、十条台1〜2丁目でした。
江戸時代から明治時代始め頃は、現在の京浜東北線の東側低地(東十条)はほとんど田圃で、西側台地(上十条)は畑でした。
江戸から明治へ
1873年(明治6年)維新政府は地租改革条例で、物納(米に限る)の年貢を金納に改革し、土地所有者(地主)に一連番号をつけ検地して、木製の地券を発給しました。
新たな地名
この時、下十条村の田圃(現:東十条地域)に、筏(いかだ)、下り松(現:東十条5丁目付近)、道女喜(どうめき)(現:東十条6丁目付近)、桜田(現:王子5丁目団地)、根岸(現:東十条2・3丁目)、宮田(現:東十条1・2丁目)、江頭(現:王子5丁目)の小字名が付けられました。
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