済州4.3事件を追悼し、平和と人権を考える

 韓国の済州島は、ユネスコの世界自然遺産に選定された美しい島であるが、一方で、とても辛く悲しい歴史を持っている。ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家ハンガンさんの著書「別れを告げない」は、済州島で繰り広げられた虐殺事件である「済州4.3事件」が題材になっている。私自身も、本を読み、大きな衝撃を受けました。

 歴史を学んでみると、1945年8月15日、日本の植民地支配から解放され、朝鮮半島は自主的な独立国家の建設を願う人々の運動があったが、第二次世界大戦後のアメリカとソ連の冷戦構造の中で、38度線を境に、米軍・ソ連軍が駐屯し、南北分断の状況がつくられました。

 そうした南北朝鮮の対立や葛藤の中、1947年3月1日の3.1発砲事件が起点となり、1948年4月3日に蜂起が勃発して以来、1954年までの7年7カ月の間に、島民3万人余りの犠牲をもたらした残酷な韓国現代史と言われています。島内のハルラ山や洞窟、海や渓谷、飛行場で、そして朝鮮戦争(1950年~1953年)の時期には、予備検束(犯罪を犯す蓋然性のある者を事前拘禁すること)者の大勢の人が消え失せ埋葬されたという。

 さらに辛いのは、4.3を素材に詩や小説を書き発表した詩人や作家は、国家保安法により捕らえられるなど、長い年月にわたり、この事件を口外することはタブーとされてきたこと。遺族や真相究明・真実を求める人々のたゆまぬ取り組みや、1987年6月の民主化の動きの中で、ようやく4.3の真実が明らかにされてきました。

 1988年に4.3追悼行事が初めて開催され、4.3研究所の設立。1998年には、済州・ソウル・日本において、4.3の真相を明らかにすべきと声があがり、4.3真相究明特別法制定を求める運動に進展。1999年12月16日、「済州4.3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」が、与野党合意で国会本会議を通過。2000年1月12日に「4.3特別法」が制定・公布。2003年、4.3を「国家公権力の人権蹂躙」と規定する「済州4.3事件真相調査報告書」が確定し、当時の廬武鉉大統領が済州島を訪れ、過去の国家権力の過ちを認め、遺族と済州島民に対し、公式に謝罪。2005年、政府が「世界平和の島」と宣言しました。

 とても一度では受けとめきれない事実。まさにジェノサイトではないか、、、と、一人ひとりの生身の人間、その人生に襲いかかった惨状を思うと身も心も引きちぎられる思いがします。

 それでも、真実を求める人々のたゆまぬ努力によって、後世において、その人権と名誉が回復され、補償が始まったことに、ひとすじの光、希望を感じます。

 残虐な諸行の背景に、日本帝国主義の侵略の歴史と統治、治安維持法やアメリカなど大国の世界戦略があるとすれば、 どんな国にあっても、一人ひとりの人権や平和に生きる権利を尊重し、互いに理解しあい共生するための市民の連帯、運動が幾重にも重厚に拡がっていくことが大切と感じた。これからも歴史から深く学び続けたい。

済州4.3平和公園のパンフレット(焦土化作戦が行われた時、雪野原で犠牲になった母子を形骸化した像が表紙)

平和記念公園 慰霊塔、刻銘碑

平和記念公園のモニュメント 成人男女、少年少女、性別がわからない乳幼児用の5着も寿衣の造形物、手厚く葬られることのなかった犠牲者を象徴的に慰めている

済州4.3平和記念館

椿は、4.3のシンボルの花

 

 

 

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