2026.04.03
済州四・三に思いをはせる
ノーベル文学賞を受賞した作家ハン・ガン著「別れを告げない」で題材となっている「済州4・3」は、韓国の歴史で長くタブーとされてきた一般市民への虐殺、国家犯罪である。
私は昨年、済州4.3の歴史を訪ねる旅に参加し、済州4.3平和公園と平和記念館、200人近くの住民が虐殺された北村小学校付近、順伊(スニ)おばさんの文学碑、失われた村東広里、ソダルオルムやトジンモク虐殺跡地、百祖一孫之地などへ足を運びました。
その内容はあまりに重く、とても一度では受けとめきれない衝撃だった。済州の人々は70余年前、日本植民地支配からの解放の中で、南北分断を防ぐために立ち向かった果てに、悲惨な犠牲を払うことになる。
「済州四・三」は、済州島での一部島民の武装蜂起が4月3日であったことから呼ばれる由来になっているが、起点となったのは1カ月前の3月1日。三・一独立運動記念の集会後のデモに対して、米軍政下の警察が発砲し、子どもを含む6名が犠牲となったことがある。島民の抗議に対して米軍政は半島部から警察部隊や北朝鮮から逃れてきた西北青年会を投入しての「アカ狩り」を行った。
その年の5月10日に実施された南側だけの「単独選挙」は、島民の反発と武装隊の阻止闘争によって、島内3カ所の選挙区のうち2か所で無効となったが、大韓民国樹立の基礎となる選挙での投票無効は、全国200の選挙区のうち済州島の2つの選挙区のみだった。
同年10月に誕生したばかりの大観民国政府、軍・警による討伐は、海岸線から5キロ以上離れた地域を「敵性区域」とみなし、出入りするものは無条件に射殺するという布告文を発令。その武力鎮圧の過程で、一般島民2万5千人から3万人が犠牲となった。一人ひとりの生身の人間に、その人生に襲いかかった惨状を思うと、身も心も引きちぎられる思いがする。
それは、アメリカと国家権力による反共ジェノサイトではないかと感じる。そして、済州島の現地での無差別殺戮の陣頭にたった討伐隊の指揮官のほとんどは、日本陸軍で戦闘経験のある軍人たちであり、住民虐殺の制度的根拠となった一連の治安制度も、戦前日本での弾圧法制を下敷きにしていたとされている。済州島での住民虐殺は、日本の植民地支配と無関係ではないのだ。
そしてその事実は、政府によっても半世紀にわたり「なかった歴史」のように隠蔽され、済州四・三の死の淵を生きのびた人々、死地を逃れて日本に渡り、在日コリアンとして生活した人々も、様々な理由で長く沈黙してきた。
それでも、真実を求める人々のたゆまぬ努力、更には1987年6月以後、韓国の民主化が契機となり、1999年「四・三特別法」の制定、2003年、国家権力による人権蹂躙が甚大であったことを認める「済州四・三事件真相調査報告書」が確定し、当時の廬武鉉大統領が済州島を訪れ、犠牲者や遺族と島民に謝罪した。
その後2018年、70周年追悼式にて、文在寅大統領が「四・三の完全解決」を訴え、2021年に犠牲者や遺族への補償を盛り込んだ「四・三特別法」の全面改定が行われた。後世において、その人権と名誉が回復され補償が始まったことに、ひとすじの光、希望を感じる。
残虐な諸行の背景に、日本帝国主義の侵略の歴史と統治、アメリカなど大国の世界戦略があるとすれば、どんな国にあっても、一人ひとりの人権や平和に穏やかに生きる権利を尊重し、互いに理解しあい共生するための市民連帯、運動が幾重にも重厚に拡がっていくことが大切と感じている。


済州4・3平和公園(2008年に開館)


犠牲者の刻銘碑

済州4・3行方不明者墓城


2026年4月から日本で順次上映中「済州島四・三事件ハラン」を鑑賞。脚本・監督ハ・ミョンミ
ハランは、冬に咲く蘭。4・3当時、ハルラ山に自生していた。冬の過酷な環境下で花を咲かせることは、悲劇的な歴史の中で人間の尊厳と生命が花を咲かせることにつながる。
上映後の監督によるトークでは、「済州四・三は、複雑な事情や主張もあるが、年配者・子ども・女性に焦点をあて、普通に生きるその人たちに何がおこったのか、どのような体験だったのかを伝え、過去のことではなく、今、ここにあるものとして感じてもらいたい」と語りました。

