2026.04.17
台湾の歴史から人権と民主主義を学ぶ
私にとっての「台湾」の印象は、コロナ禍で就任した若い世代の大臣が、ITを駆使して感染症対策のインフラ整備を急速にすすめたことや、アジアで初めて「同性婚」が成立したこと。学生や若者を中心に「ひまわり運動」という民主主義を求める活動が起こったこと。最近では高市首相の「台湾有事」発言による外交問題。かつては日本帝国主義の下で、50年にわたり日本の統治下だった歴史などなど、、、、。そして最も直近は、「隙間」という4巻にわたる漫画本を読んだことだ。
その漫画本の中で、台湾の戦後の歴史的な事件である「2・28事件」にかかわる描写もあり、その内容に私自身衝撃を受け、公権力による人権侵害について学び、考える機会となった。
「2.28事件」とは、1947年2月28日、日本の植民地支配から抜け出した喜びもつかのま、内戦の影響と台湾を接収した中華民国政府による高圧的な支配を受け不満が高まっていた中で、闇たばこ取り締まりの誤射により市民の1人が死亡したことに抗議した台湾群衆に対し、衛兵が機銃射撃で罪のない住民を虐殺した事件である。
この事件は、台湾全土を揺るがす全面的な反政府デモに発展し、行政長に対する民主的な話し合いや選挙などの交渉努力が行われた一方で、行政長官が中国大陸にいた蒋介石に軍隊の派遣を要請し、3月8日の台湾上陸以降、国民大会代表、弁護士、医師、教師、公務員、鉄道職員、市民、若者らが、手あたり次第、逮捕・拘束・拷問・射殺・暗殺され全面的な鎮圧が展開されたという。
更に、蒋介石が率いる中国国民党が中国共産党に敗れ、台湾に撤退すると、「我々こそが本当の中国」「共産党とはまだ戦争状態」との大義名分の下で、言論の自由をはじめ、憲法に守られるはずの諸権利が市民から奪われ、出版や報道の制限・検閲や、社会主義、台湾独立の主張はもちろん、国民党や政府に反対するあらゆる声が取り締まりの対象となり、政治犯として捕まった多くの人(政治的活動をしていない人も)は、軍法による非人道的な拷問や処刑が行われた。(家族や遺族も社会的に排除された)
この蒋介石(中国国民党)による戒厳令独裁政治は、白色テロの時代とも称され、1949年~1987年の38年間続き、こうした悲劇を語ることもタブーであったという。また、中国人になることへの強制で学校では中国語を必ず使い、台湾語や原住民族の言語も長く使えない状態が続いた。(1971年国連脱退。1972年日本と断交。1979年アメリカと断交。国際的にも「中国」と認められなくなっていた)
こうした厳しい状況の中で、投獄と処刑のリスクを負いながら、台湾市民は政治と社会に関心を持ち、公権力による人権侵害に立ち向かい、民主化を求める運動を続けてきた。(その中には、100%の言論の自由を求め焼身自殺したジャーナリストもいる)
1995年2月28日、当時の李登輝・総統は、国家元首として、二・二八事件の犠牲者の家族と全国民に向け謝罪を行った。1996年、始めての大統領の直接選挙が行われ、教育も台湾史を学べるようになった。2000年の選挙で初めて政権交代が起こり、その後の選挙でも政権交代が繰り返され、2016年には、初の女性大統領(民進党)が選出された。(現在は、民進党政権だが野党が国会多数となっている)
2019年~2020年の香港国家安全維持法に対する、台湾の人々の思いも複雑ではないかと考える。
台湾の歴史を学び、私が1番強く受け取ったメッセージは、公権力の抑圧からの自由だ。

二二八国家記念館(日本統治時代は台湾教育会館)にあるパンフレット表紙

二二八国家記念館にある 2007年油画「縛られた冤魂たち」
2.28事件において、基隆地区に上陸した軍隊が、逮捕した市民の手首と足首を針金で貫いて縛り、射殺する場面を描いた作品。銃弾で命を落とさなくとも、ラインにおける前の人に引きずられて海に落ち溺死することになる。

国家人権博物館景美区 に展示されている足錠
その施設は、1957年~67年まで軍の学校だったが、1967年からは「景美軍看守所」として、白色テロ時代の政治犯として疑いをかけた人の拘置、拷問や秘密裁判が行われたいた。死刑判決が言い渡されたものはすぐに銃殺刑にされ、懲役刑の判決を受けたものは、軍人監獄や緑島(台東港から船で約1時間離れた島)に送られ長期間監禁された。

鉄線で作られた鳥に、果てない自由への渇望を見る

国家人権博物館景美区 内にある白色テロ犠牲者(12062人)の名前が掘られた石碑

白色テロ緑島紀念園区 日本統治時代は「火焼島浮浪者収容所」だったが、戦後は政治犯が収容され、戒厳令解除後は普通の刑務所を経て、現在は政治受難者の人権博物館に。

新生訓導処(思想改造)時期の模型展示

ゴツゴツした岩を切り出しかついだり、水汲みの運搬で身体中が傷だらけに。情報が入らないため魚を釣りに出た時など捨てられた新聞紙を拾い集め、皆でまわし読みした。

政治犯の閉鎖式の監獄(緑州山荘)月1回だけ面会可能で、海をわたり家族が来るが、窓越しに通話機で15分だけの会話。すべて盗聴された。
収容所で問題の人は離れた独房に送られたが、その場所は立ち上がることもできない狭い空間。1日1膳、1杯の水しか与えられず。大小便もその場でするしかなく排泄物と蚊にまみれこの世の地獄だった。

15年もの間、収容された受難者の眼科医は、妹への手紙が心の支えだった。妹に子どもが生まれたことを知り、海から木々を広い集めるなどして、長年かけて医務室でバイオリンを手作りし、姪に送ったという。

1984年、週刊誌「自由時代」を創刊した鄭南榕。1986年、519グリーンアクションを呼びかけ、国民党政府の37年間に及ぶ戒厳令に抗議し、即刻解除を求める。台湾独立100%の自由を求め、「私をとらえることができるのは屍だけ」と、警察隊が入る前に、編集室で焼身自殺した。

台湾市街地で並木通りにもなっていた「がじゅまろの木」街のあちこちで見られる。根のようなものや髭のようなものが勢いよくのびている。
