宇都宮章レポート
宇都宮章レポート
NO.136 2016年8月号
参院選、都知事選ご支援ありがとうございました
国政も都政も激動の中
都議再選を目指しがんばります
都議会議員 そねはじめ
6月13日舛添問題集中審議・そねはじめ都議
 参院選と都知事選という一番長い選挙を連続で取り組みました。参院選では、東京での山添拓さんの初当選と比例での躍進を勝ち取り、知事選は、悔しい結果ではありましたが、鳥越候補を先頭にがんばりぬき、東京で初めて実現した野党と市民の共同で一定の前進を果たすことができました。 ご支援をいただいたみなさん、本当にありがとうございました。
鳥越候補は、結果が出た後の挨拶で、野党共闘のさらなる発展を期待する発言をしましたが、今回の知事選で、オリンピックや公共事業の浪費を見直し、福祉やくらしに回せという政策で大きく一致点を広げたことは、今後に生きる大きな成果です。
私も、6月13日集中審議(写真)での舛添前知事追及で激励を受けたことを力に、今後も小池知事を含めた疑惑追及や都民要望実現のため奮闘します。 
築地市場の豊洲移転では、環境問題とともに、多くの零細仲買業者が廃業に追い込まれ、北区の魚屋、肉屋、すし店なども取引先を失う危険があり、「立ち止まって考える」と約束した知事に、都民の立場で見直しを求めていきます。宇都宮区議とともに、保育、介護、公共団地やマンション対策、東十条駅の改善など、住みよく安全なまちづくりをがんばって進めます。

定数削減で3人区!
来年夏の都議選で北区は、定数減による3人区の大激戦となります。何としても都議選を勝ち抜いて、政治を変える力を大きく前進させる決意です。
都知事選開票結果
党創立94周年記念講演会に参加して
日本共産党94周年記念講演会
8月5日北とぴあで行われた記念講演会に参加しました。来賓のシールズや安保関連法に反対するママの会の話に若い世代の人たちが自分の主張をしっかり持って行動していることに感心します。
志位さんの話では、統一候補で戦った地域の生の声が印象的です。協力の中で信頼関係が築かれてきた例など、互いを尊敬し誠実に力をつくす大切さを強調されました。 東北、福島、沖縄と、今の安部政治の問題がはっきり表れた地域での野党が勝利した点が重要との話は、今後の野党共闘のはっきりした指針となると思います。
参加者の熱気にも力をもらった講演会でした。
神谷2丁目 K.T.
第40回団地まつり

出店を訪れた宇都宮章区議
7月30、31日の2日間王子五丁目団地まつりが開催されました。
宇都宮章区議とそねはじめ都議は都知事選終盤で忙しい中を今年も団地まつりに顔を出していただき、にぎわい始める盆踊り会場や団地の新婦人のスーパーボール屋さんをはじめいろいろなお店も見て回りました。
四季の会(王五団地後援会)
幻の鉄板復活
バーベキュー &カラオケ
日時 10月9日(日)11時30分〜3時
会場 柏木神社
会費 1,000円
詳細は事務所までお問い合わせください。
終戦特集
 本号は戦争体験をお持ちの読者のみなさんから貴重な体験をお聞きして特集を組みました。
  出陣学徒壮行会のお話は大変感動的なので調べました。

昭和18年10月21日は文部省主催、陸海軍省の後援で東条英機首相、岡部長景文相らの出席で実施された。神宮外苑だけでなく、台北で同日開催され、10月30日には京城(現ソウル)11月中に大阪を初め国内6カ所。外地では満州国のハルピンなど4ヵ所で実施。昭和17年以降の戦局悪化で戦死者が増加し兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた。

◆出陣学徒壮行会で学徒兵を見送る。
私は昭和18年(1943)10月21日、明治神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」の観客席から出陣学徒を見送りました。
当日はかなり強い雨が降っており、水のたまったグラウンドを、銃をかついだ大学生が水しぶきを上げて入場行進しました。(写真)
出陣学徒壮行会
席は前から4〜5番目で隊列がよく見えました。
私は13才の高等女学校1年生で、隣の観客席は豊島高等師範学校でした。  
東京帝国大学文学部の学生が勇ましくも悲壮な答辞を読んだことをよく覚えています。
2時間に及ぶ式典は厳粛に進み、ずぶ濡れになりながら観客席を埋め尽くした理工系大学生や女子生徒達が「海ゆかば」を合唱し、私は涙で退場行進する大学生を見送りました。
のちに学徒兵の多くが特攻隊員となり戦死している悲劇は今でも頭から消すことはできません。
二度と戦争はしてはいけない!
神谷2丁目 T.Y.(86)

◆遊んでいた 艦載機が墜落。
私は昭和6年(1931)2月15日千葉県九十九里町片貝の生れで現在85才です。
昭和20年(1945)の春ころだと思います。 夜になると九十九里浜沖合10キロ位のところに停泊する米軍艦の窓明かりが右から左までズラーッと並んでいるのが家から見えました。
朝はB29が編隊で高いところを飛んで東京方面へ向かうので怖くはないのですが、昼間は艦載機(グラマン)が飛んできて機銃掃射があり恐怖の連続でした。(上の写真)
ある日、艦載機1機が宙返りをしたり屋根スレスレに飛んだりして遊んでいました。日本の飛行機は1機も飛んでこないので暇つぶしだったのでしょう。遊びが過ぎて地上と翼が90度になって暫らく飛び上昇しようとした瞬間、失速して裏返しになり私の見ている前で畑の中に墜落したのです。
米軍艦載機グラマンF6F
米軍艦載機グラマンF6F
終戦までに12,000機製造された
昭和20年3月高等小学校を卒業して片貝駅に勤め出した時、連結器を繋ぐ仕事(男は兵隊でいない)で指を挟んでしまい、まだ傷が治る前にあの艦載機が墜落した時の夢を見て、手を振り回し痛い指を嫌とゆうほど床にぶつけ、また傷がひどくなってしまいました。
終戦の玉音放送はラジオのある家で大人子供7人が一緒に聞きました。
東京から来ていた15才の男の子だけが途中で「戦争負けたー」と言って泣きながら親戚の家に走って行きました。他の人は天皇の言葉を聞いてもさっぱり分かりませんでした。
神谷2丁目 K.T.(85)

怒り心頭、そして、 もの悲しく、愛おしい
昭和20年8月15日、抜けるような青空の快晴。 正午に重大放送があるとのことで、航空隊全員整列して放送を待った。 拡声器を通じての放送はピーピー・ガーガーと雑音が入り聞き取り難い。 抑揚に特徴のある天皇の放送内容は、その時は分からないまま、おそらく「本土決戦の一億玉砕」の放送だったのではないかと、お互い語らいながら、その場を解散しました。
若い血潮の予科練

若い血潮の予科練の
7つボタンは桜に錨
予科練の7つボタンは桜に錨
私は昭和19年9月、工業学校3年生(今の中3)で第15期海軍甲種飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に入隊。
その年にバラック兵舎の福岡航空隊に転属しましたが、その間「海軍精神注入棒」というバッター(腫れあがるほどの尻たたき)の洗礼もうけました。
もう2〜3年早く生まれていれば、ただ敵艦に命中するためだけの技術と資金不足を人間の生命で贖う、神風特攻隊員として名誉の戦死をしていたかもしれません。
「武士道とは死ぬことと見付けたり」との精神教育で育てあげ、「7つボタンと白いマフラーの航空兵」の恰好良さで少年を惹きつけ、消耗品としての特攻隊を作ったことは断じて許せません。
今の中学3年生を見て、まだ子供だった当時のわが身を振り返る時、悲しくも、愛おしく想えることもあります。
東十条3丁目 N.K.(87)
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